第25話 物理学者の苗代
姉妹エッセイ“有限要素法よもやま話”のどこかで、古本市で発見した書籍の著者がゾンマーフェルトであったことを紹介しました。周知の通り科学史上、学術上の素晴らしい業績を上げた偉大な科学者は何人もいました。また、多くの弟子たちに末永く慕われたという偉大な科学教育者もいたでしょう。しかし、この両者を兼ね備えた科学者となると、そう多くはなかったのでと想像します。ドイツの理論物理学者ゾンマーフェルト(Sonmmerfeld:1868-1951)は、そんな数少ない一人だったようです。
先の本のことがきっかけで、名前だけ知るばかりで人物像を何も知らなかったゾンマーフェルトのことに、筆者は興味を持ち、ちょっと調べてみることにしました。ところが、日本では、彼の伝記本が無いので少々難関でした。彼の愛弟子でもあったハイゼンベルク関係の本辺りから浮き上がってくるゾンマーフェルトの姿しか見えないかなと思っていたら、ちょうど1年ほど前に、ゾンマーフェルトを中心に据えた、原子理論の歴史の本1 が出版されていることを知り、早速読んでみることにしました。
ただ、この本もゾンマーフェルト個人の伝記ではなく、彼がミュンヘン大学で築いた学派を通じて語った現代物理学と社会との繋がりを述べたものでした。そんなことでゾンマーフェルト自身の詳細を知ることは達成できなかったですが、それでも多少なりとも彼の生涯を少しは知り得ましたので、他の本からも補充をしながら、ここでゾンマーフェルトのことを紹介してみたいと思います。
ゾンマーフェルトはドイツのケーニヒスベルクで1868年、医者の子として生まれています。ケーニヒスベルクといえば、オイラーの逸話や大数学者ヒルベルトの生誕地として有名ですね(ヒルベルトはゾンマーフェルトよりも6年前の生まれでした)。大学も当地のケーニヒスベルク大学に入学しますが、ゾンマーフェルトが入学した当時のケーニヒスベルク大学といえば、19世紀半ば、ヤコビとノイマンによってもたされた物理学史上有名な黄金時代(“有限要素法よもやま話”第46話参照)は既に過ぎ去った時代でした。この時代のゾンマーフェルトは、黙々と数学を勉強する姿しか浮かび上がってきません。博士論文も数学の論文だったようです。しかし、この博士論文に目を止めた大物数学者がいました。ゲッティンゲン大学にいたF.クラインです。
F.クラインはゾンマーフェルトが出世街道を歩むスタート時点の大の恩人でした。1893年、ゾンマーフェルトはF.クラインに呼ばれてゲッティンゲン大学に移ることになりました。しかし、移った先は意外にも“鉱山学研究所”だったのですが、1年後には数学教室の助手になっています。この時の、大物学者による引きがなかったら、後年のゾンマーフェルトの輝かしい経歴は無かったと想像できます。余談となりますが、大数学者にして名スカウトと言ってもいいのは、F.クラインですね。流体力学分野での大家プラントルの場合もそうでした(“有限要素法よもやま話”第16話参照)。
閑話休題。1899年、ゾンマーフェルトは、F.クラインの助力もあって、アーヘン工科大学の応用力学教室の教授に招聘されています。アーヘン工科大学といえば、少し後、カルマン渦で有名なカルマンが航空工学を始めた大学でもありますが(“理系夜話”第17話)、カルマンが着任した時は、既にゾンマーフェルトはミュンヘン大学に移った後でした。アーヘン工科大学で、ゾンマーフェルトは5年間ほど過ごすのですが、当時の彼は、後年の顔と違って、全くの応用数学者、あるいは数理物理学者の姿でした。
この当時の彼の著作物として知られているのが、ゲッティンゲン時代にF.クラインとの共著で出した“こまの理論”とアーヘン工科大学時代の“潤滑剤の摩擦に関する流体力学的理論”です。後者に関しては、現在でも摩擦工学の分野の教科書に彼の名が出ていたように思います。
1905年、ゾンマーフェルトは幸運にもミュンヘン大学に移ることができました。今度は、理論物理学の教室です。この椅子は、当初、かの有名な大物物理学者であったオーストリアのボルツマンを招聘するものだったのですが、ボルツマンが断ったために、ゾンマーフェルトに回ってきた経緯がありました。これが、この後長く続くことになるゾンマーフェルト学派の始まりだったのです。
ところで、この転機の前後の期間、ゾンマーフェルトはF.クラインに依頼されていた仕事がありました。当時、F.クラインの肝いりで“数理科学百科全書”という刊行物が計画されていました。この物理学編の編纂担当にゾンマーフェルトが指名されたのです。実に、この編纂の仕事こそが、後にゾンマーフェルトをして彼の名を科学史に残すきっかけだったのです。編纂を通じて、当時の物理学の先端を行く一級の物理学者と交流を持つことができ、そのうち彼自身が理論物理学に関心を持ち、その虜になってしまったのです。工学者から物理学者への変身です。
当時の物理界の最大の関心ごとといえば、1895年レントゲンが発見したX線の正体の解明でした。ゾンマーフェルトも例外ではなく、物理への入り口の研究は、結晶によるX線の干渉を通じて知る原子構造にあったようです。彼自身の終生のテーマも、固体物理(金属物理)にあったようです。彼が執筆した“原子構造とスペクトル線”という書籍は、現代物理学に携わる物理学者にとっては、この分野のバイブル的存在だったそうです。
しかし、その名前の大きさに比して意外なことに、ゾンマーフェルトはノーベル賞受賞者ではありません。量子論の創始者の一人、デンマークのボーアが打ち立てた有名な原子モデルの修正をやってのけたので、1922年、ボーアがノーベル賞を受賞した時、そのうち自分にも賞が回ってくるものと期待したのではないか、と想像もできるでしょう。でも、その想像は、ゾンマーフェルトに対しては、酷というものでしょうか。彼が、ミュンヘン大学に来て、本格的に物理学を始めた年齢は既に37歳です。現代物理学で創造的な業績をあげるには、薹が立った年齢といえるのではないでしょうか。
ゾンマーフェルトの名を有名にしたのは、物理学への彼自身の貢献もさることながら、むしろ多くの超一流の物理学者たちを巣立ちさせた師父としての役目にあったのではないでしょうか。ミュンヘン大学の理論物理学教室からは、多くの理論物理学者が巣立っていき、ゾンマーフェルトの教室は、彼が退官するまで、あたかも“理論物理学者の苗代”の様子を呈していたのです。弟子、孫弟子によるネットワークが形成され、それが後に“ゾンマーフェルト学派” と呼ばれたものでした。
特筆すべきは、ハイゼンベルク、パウリら4人のノーベル賞受賞者がゾンマーフェルトの下で学んでいたことです。偉大な教育者、それがゾンマーフェルトの真骨頂だったのではないでしょうか。
学問的レベルでは、高校卒業時には既にヘルマン・ワイルの“空間・時間・物質”を熟読し終っていたというハイゼンベルク、21歳の若さで、一般相対性理論の評判の論文を書き上げたというパウリら、弟子である天才たちは師を超えていたかもしれませんが、その傲慢さも見せず、いつまでも師であるゾンマーフェルトを慕っていたといいます。
1933年の不幸な、第三帝国による非アーリア人追放政策で、多くのユダヤ系科学者がドイツから去りました。プランク、ハイゼンベルクとともにゾンマーフェルトも残留出来た少数派の一人でした。この大戦の最中、長年の講義録をまとめて出版したのが、“理論物理学講義”だったようです。出版されるとすぐにすぐに英訳、ロシア語訳がなされたそうです。これらが、戦後の物理学世代にとって学習素材となったゾンマーフェルト学派の物理だったのです。
しかし、最終の第6巻を贈呈されたアインシュタインがお礼の賛辞の捧げたのは、ゾンマーフェルト未亡人だったいいます。
2014年初夏記
- * ミヒャエル・エッケルト著、金子正嗣訳“原子理論の社会史-ゾンマーフェルトとその学派を巡って”海鳴社 [↩]
読者からの寄せられたコメント
ゾンマーフェルトの伝記は私も探していて,「原子理論の社会史」も読みましたが,正直あまり面白くありませんでした.偶然「crafting the quantum」という本を手にいれました.まだ読んでいませんが,あるいは興味深いことが書いてあるかもしれません.
現在65歳の私は「理論物理学講座」を愛読書にしています.論理的には飛んでいるところがありますが,あたかも講義を聴いているような,自由な雰囲気に浸ることができて,そこが好きです.