第46話 境界に出てくる数学者
有限要素法の学習を始めた学生の頃、まずは基礎となる変分学を勉強しようと思って何冊かの参考書のページを繰るうちに、その境界条件の呼称の多さに面食らったことを今も覚えている。
すなわち、基本境界条件に始まって自然境界条件、自由境界条件がある一方、幾何学的境界条件と力学的境界条件がある。そして、デイリクレ型境界条件とノイマン型境界条件という二人の人名を冠した名称もある。
最後の人名の付いた境界条件は偏微分方程式を扱う数学屋さんの世界では定番の呼称のようであり、下記のように境界で関数値そのものが与えられる場合がデイリクレ型境界条件であり、関数の微分値が与えられる場合がノイマン型境界条件と呼ばれている。また、この両者の組み合わさった混合型境界条件というのもあり、つい最近まで筆者は知らなかったのだが、この場合もロビン(Robin)型という人名が付けられることもあるようである。
工学部の出身者なら、だれしも最低一人のノイマンなる人物は浮かぶであろう。悪魔の化身とまで言われた天才の中の天才フォン・ノイマン(John Von Neumann;牙1903-1957)がそうである。
さらに、科学史に多少なりとも興味を持っている人ならば、もう一人のノイマンを知っているのではないだろうか。有名な物理学者で、われわれ応用力学分野の人間には馴染のあるキルヒホッフの師であったフランツ・ノイマン(Franz Neumann;独1798-1895)がそうである。
上の境界条件名に冠せられているノイマンは、内容、時代からして前者のノイマンでないことは察しがつくので、筆者はてっきり後者のフランツ・ノイマンこそ、そうだと思っていたのだが、違っていたことを最近知らされた。彼の息子のカール・ノイマン(Carl Neumann;独1832-1925)の名が取られていたのである。
このノイマン父子、ともにドイツ数理学方面の興隆に貢献したのだが、親が97歳、子が93歳という親子とも長命であったことも驚きである。
F・ノイマンの出生時は家庭環境がやや複雑であった。両親の結婚が貴族(母親)と平民というケースであり、ひと悶着あったらしい。そのあおりで、彼は10歳になるまで母親に会えなかったらしい。長じては、プロシア軍に志願兵として入隊するが、史上有名なナポレオン敗戦のワーテルローの戦いの直前に負傷してしまい、この戦いには参戦できなかったらしい。
F・ノイマンは28歳の時、ケーニヒスベルク大学の教職につき、以後そこでの活動は50年間に及んだと言う。ケーニヒスベルク1 1はプロシアの小さな町であるが、哲学者のカントが生まれた地で有名であった。実は数学界にとってもちょっとした記念碑的な町でもある。オイラーが解決した、いわゆる“ケーニヒスベルクの七つの橋の問題”がトポロジー(位相数学)という数学部門の端緒の1つであったと言われている。後年、19世紀から20世紀にかけての大数学者となるヒルベルトもこの地で生まれているから、何かと数学に縁のある町であった。
F・ノイマンは、ケーニヒスベルク大学で数学者ヤコビとともにドイツの科学史にとって重要となる数学・物理のゼミナールを開設することになる。これが後に“ケーニヒスベルク学派”と呼ばれた人脈を生むこととなり、このゼミから、物理ではキルヒホッフを初め、クレープシュ、フォークトが、数学ではウェーバー、ヘッセ、それに息子の C・ノイマンという具合に19世紀後半のドイツ数学・物理の繁栄の立役者たちが育っていったのである。
C・ノイマンはポテンシャル論での貢献が大きくて、先の境界条件にその名が付けられたようである。
さて、次は境界条件の名に冠せられたもう一人の人物に移ろう。
ディリクレ(Dirichlet;独1805-1859)は、ドイツ数学史上において低調期から興隆期への転換時に活躍した大物数学者のわりには日本でその伝記、評伝が見当たらないのが不思議である。有名な E. T. ベルの数学者列伝にも登場していない。筆者の知る限り、高木貞治の著“近世数学史談”の中に“ディリクレ小伝”という小さいエッセイがあるのみである2 。
ディリクレは54年間という比較的短い人生であったにもかかわらず、多彩な人物たちが彼を取り巻き、ディリクレの人生に華を添えている。ケルン工科大学時代に、有名なオームの法則のオームに教わるという境遇に巡り合ったり、夫人は、これまた有名な作曲家メンデレスゾーンの妹であったり、偉大な数学者ヤコビとは終生の友人として交流している。さらに、彼の教え子にはリーマン、クロネッカー、デデキントという具合に錚々たる数学者がいたのである。
そして、何と言ってもディリクレの数学に影響を与えた二人の数学者の存在が大きい。一人はドイツのガウス(Gauss;独1777-1855)であり、もう一人はフランスのフーリエ(Fourier;仏1768-1830)である。
ディリクレはガウス数学の信奉者であり、伝道師でもあった。出版物の極めて少ないガウスにしては珍しく“数論研究”という書籍が出版されたことがある。部数も少なくすぐに売り切れ、これを所有する数学者は少なかったが、ディリクレは持っていた。彼はこの本をバイブルのように扱い、旅に出る時も寝食をともにしていたという。
“数論研究”を所有する数学者の中でも、ガウスの深さを知る者は少なかったと言われているが、ディリクレは理解しただけでなく、ガウスの数学を咀嚼して周りに解説していたという。これがまた、ガウス以上の説明であったと後世に評価されている。先の高木も、“19世紀の数学”の著者クラインも述べているが、言葉という手段だけで数学を伝えるディリクレの才能を褒め称えている。
ディリクレは若い時期、フランスに留学している。その理由は、ドイツ数学の高さを知る後世の人間からは信じられない話だが、ドイツ数学のレベルの低さという。当時、ガウスはいたが、彼は富士山のような人で、一人高く聳えるばかりで、平均的には当時のドイツの数学は低調であり、フランスにはとてもかなわなかったらしい。ディリクレの帰国時期からドイツ数学のレベルが上がっていったことを考えると、彼のフランス留学というのはドイツ数学史にとってエポックメーキングな出来事だったといえるかもしれない。
フランス滞在時にディリクレは、かの有名な“フェルマーの最終定理”の証明で数学デビューを果たしている。もちろん、完全証明ではなく、N=5の場合の証明である。このときの証明に解析学を使用しているが、これはある意味、画期的な証明であった。というのも、連続量を扱う解析学でもって離散量を扱う数論を証明したのである。20世紀末、アンドリューズ・ワイルズが“フェルマーの最終定理”を完全証明した際、多部門の数学を駆使したが、ディリクレの方法はその前触れの役目を果たしていたのである。
ディリクレの数学人生で大きく影響を与えたことの1つはフランス滞在時にフーリエに出会ったことである。フーリエのサロンに仲間入りして、多くのフランスの数学者と知り合えたこともさることながら、フーリエ自身の数学にいたく刺激されたことが大きい。
フーリエ級数の収束の証明をおこなったのもディリクレである。このときの経緯が面白い。最初、ポアソン(Poisson;仏1781-1840)がフーリエ級数の収束証明に成功したかに見えた。ところが同国のコーシー(A. Cauchy;仏1789-1857)がその欠点を指摘して証明しなおした。ところが、コーシーの証明にも間違いを発見したのがディリクレである。そんな訳で、後世、ディリクレはフーリエ級数理論の第一人者とみなされている。
2008年3月記