第26話 ロシアの知恵子さん
ずっと以前、“有限要素法よもやま話”の第27話に、“フランスの知恵子さん”のタイトルで、ソフィー・ジェルマンのことをとりあげたことがありました。今度は、“ロシアの知恵子さん”の話です。
数学史上、3人の女性数学者を選べ、と言われれば、上のソフィー・ジェルマン(Sophie German:仏1776-1831)に、アインシュタインに絶賛された20世紀初頭の数学者エミー・ネーター(Emmy Nother:独1882-1935)、そしてこの二人の間の時期に活躍する、今話の主人公ソフィア・コワレスカヤ(Sofya Kowalevski:露1850-1891)というところでしょうか。コワレスカヤは、よく愛称のソーニャで呼ばれることが多かったようで、ここでもそれを踏襲したいと思います。
ソーニャの数学的実績は、偏微分方程式の理論の中に“コーシー・コワレスカヤの定理”というのがあることはあるのですが、彼女が数学航路の指針としていたアーベル、ヤコービのように、新しい数学を生み出したとか、後続する数学者に大きな影響を与えた、というところまでの数学者ではありませんでした。その卓越した数学的センスで数学史の一コマを飾った数学者というところでしょうか。それゆえ、本格的な数学史の本では、しばしば彼女のことが割愛されていることは仕方ないことでした。しかし、少女の頃に出会ったドストエフスキーとの話、偽装結婚からの不幸な終末、ワイエルシュトラスとの師弟関係、ミッテグ・レフラー兄弟との関係、欧州最初の女性大学教授就任、と話題には事欠かないゆえ数学者列伝の本には、たいてい登場しているはずです。
ソーニャの伝記を読んでいると、それが数学者列伝中の一章であっても、まるで“ロシア一代女”といったような波瀾万丈の小説を読んでいる感じがします。実際、文才のあったソーニャには、後年執筆した自伝的小説もあったぐらいです。これがロシア語以外にも何か国語にも翻訳されて、好評を博したといいます。日本では、意外な取り合わせなのですが、大正13年(1924)、小説家の野上弥生子が翻訳出版しています。ソーニャには、時代といい、生誕地といい、彼女の人生を穏やかにさせておけない環境がありました。それが、彼女をして社会運動家あるいは女性運動家としての一面を持たせていたのですが、この単純ではなかった女の一生が、日本の著名な女流作家を押したのかもしれませんね。
以後、ソーニャの人生で関わった数学者・科学者とのエピソードを通じて、ソーニャが生きた時代が後世のわれわれから眺めて何と贅沢な時代であったかを読者に感じてもらえばと思います。
ソーニャは、父親がロシア軍将校であった家で生まれています。使用人も家庭教師もいるという裕福な家庭でした。長じて自我に目覚める年頃になると、ロシア皇帝独裁下の母国の閉塞感にたまらず、勉学のため国外脱出を図ります。その手段として、偽装結婚を選んだのです。当時のロシアでは、婦人一人での出国は絶対許されておらず、偽装結婚の撰択をしたのです(日本では、明治維新の年1868年のことでした)。これは、何もソーニャだけの異常手段ではなく、当時、女性の国外脱出用によくとられていた手段だったようです。- ついでに言っておきますと、この結婚、二人の人生前半は、確かに偽装結婚だったのですが、後半は子供も一人もうけるぐらいの真のカップルになりました。ところが地質学あるいは古生物学の専門家であった亭主が事業で詐欺に遭い、ついには自ら命を断つという悲劇で終わりました。
国外に出たソーニャが最初に学んだ地がドイツ最古のハイデルベルグ大学でした。ここで、かの有名なヘルムホルツやキルヒホッフの物理学講義を聴講しています。そして数学は、ケーニヒスベルガーという数学者に学んでします。この数学者のことを筆者は何も知らないので、手元にある数学者人名辞典で調べたところ、関数論、微分方程式の分野で業績があったようですが、ソフィア・コワレスカヤの先生、ということが一番強調されていました(笑)。いたるところで評判の数学教授だったようです。
実はソーニャの数学の師がケーニヒスベルガーであったことが、その後の彼女の、短くもありましたが、後世に記憶に残る数学人生を決めてしまったのです。というのは、ケーニヒスベルガーの師が当時の数学界での大御所的存在だったワイエルシュトラス(Weierstrass:独1815-1897)だったからです。いつしか、師の口からよく出てくる名のワイエルシュトラスの弟子になることを夢に持ち、次のステップでワイエルシュトラスのいるベルリン大学に向かうことになります。
ところが、当時のベルリン大学では、女性の入学を認めておらず、ワイエルシュトラスに個人教授をお願いすることになります。目がくりっとした妙齢の美女(その時、20歳)から数学を教えて下さい、と頼まれた55歳の老数学者の心境たるや、いかばかりか、推し量るのも面白いですね。しかし、生涯を独身で通したワイエルシュトラスにしてみれば、世の男性心理が働かなかったのか、ソーニャに能力を試す試験問題を出しています。この問題とは、結構難問だったようなのですが、これをソーニャは解いてしまったのです。しかも、独創的なアプローチだったことが、ワイエルシュトラスを驚嘆させてしまい、もちろん、OKのサインをもらうことになります。
少し脇にそれますが、当時のベルリン大学の化学部門には、有機化学で有名なブンゼンがいました。この人、有名な女性嫌いで、「ロシア女は危険である」と、ワイエルシュトラスに忠告したことがあるそうです。
ところで、ワイエルシュトラスに出会った後のソーニャの数学人生が順峰満帆かといえば、決してそんなことはありませんでした。ワイエルシュトラスの下で4年間の勉学をし、偏微分方程式の分野での論文でゲッティンゲン大学から博士号を受けています。ところが、このあたりから、郷愁の念の強い数学者の面と彼女の性格の一つであったムラッ気が強く出てくることになります。しばらく、ロシアに帰り数学から離れた生活を送っており、再三のワイエルシュトラスからの手紙にも返事をしないという空白期間があったのです-ワイエルシュトラスの存在意義なくしては、ソーニャの数学人生を語ることは出来ないのですが、後半の彼女は、老数学者をはらはらさせることが多くありました。
やがてはワイエルシュトラスの下へ戻って来るのですが、当時のこと、ロシアはもちろん、ドイツでも女性数学者に許された大学の席はありません。それゆえ、ドイツを拠点にして流浪の数学者のように母国ロシアや隣国フランスの数学者のもとを訪れています。両国では、ともに当時の大物数学者-ロシア数学の指導者チェビシェフ(Chebyshev:露1821-1894)、フランスでは19世紀後半の代表的数学者エルミート(Hermite:仏1822-1901)-と交流を持つという幸運もありました。
チェビシェフというのは、“チェビシェフの直交多項式”で有名なチェビシェフですよ。最小二乗法で利用される直交多項式がこの多項式です。自分で最小二乗法のプログラムを書く人には理解できると思いますが、仮定する関数を通常の多項式で展開してしまうと、計算過程で必要な逆行列の計算ですぐ特異状況に陥ることを多く経験します。この場面に、チェビシェフの直交多項式が威力を発揮します。チェビシェフという数学者は、厳密な解が求まらないときは、近似解を求めるというタイプの数学者だったようです。このスタイルがチェビシェフの直交多項式を生んだのでしょうか。
閑話休題。ペテルブルグ滞在中、ソーニャはミッタグ・レフラー(Mittag Leffler:瑞典1846-1927)という、やはりワイエルシュトラスの弟子の一人だったスウェーデンの数学者と知り合いになります。ソーニャの数学才能を高く評価したミッタグ・レフラーはやがてストックホルム大学の数学教室の教授として招くことに努力することになります。これが、欧州で最初の女性大学教授だったそうです(1884)。また、ミッタグ・レフラーと縁を持ったことが、ソーニャに関する最高に面白いエピソードを作り出すことになったのですが、これについては最後に紹介いたします。
おそらく、ソーニャの数学人生で絶頂の時は1888年という年だったのではないでしょうか。この年、彼女の名を一番記憶させている論文“定点のまわりの剛体の回転問題について”がフランスのボルダン賞という名誉ある受賞につながったのです。後世、“コワレスカヤのコマ”といわれている論文です。この命名は、実は本エッセイの前話で出てきたF.クラインとゾンマーフェルトの共著である“コマの理論”の中で初めて使われたそうです。
ここで、筆者も聞きかじりの知識なのですが、ちょっとコワレスカヤのコマのさわりを参考書から引用しておきましょう。
一般に、固定点まわりの剛体の運動は、角速度ベクトルの3成分と座標に関する3成分の計6変数を持つ常微分方程式で表現されます。そのうちの一つが、回転運動では定番のオイラーの運動方程式であり、その中に出てくるのが下記の角運動量ベクトルであります。
上式に出ている (ω1.ω2,ω3) は、3次元空間での角速度ベクトルの成分であり、A,B,Cは主慣性モーメントを意味しています。
そして、この常微分方程式の解を求める、すなわち積分を求める段になった場合、無条件ではお手上げ状態となります。ある条件が付いた時にだけ、積分が可能となり、ソーニャの時代までに、二つの解が求まっていました。その二つとは、
■ 重心と固定点が一致している場合 (オイラーのコマ)
■ A=Bかつ回転軸上に重心と固定点がある (ラグランジュのコマ)
ラグランジュのコマというのは、普段われわれが目にしているコマのことです。ところで、この運動方程式の解式には、本質的に当時アーベル函数と呼ばれた楕円函数を延長した函数が関係したものでした。楕円函数は、19世紀の華だったそうです。この数学は、ソーニャの得意とするところで、解析力学の大家ラグランジュが他の積分を求めることは困難であろう、と示唆していたにもかかわらず、見つけてしまったのです。それが、後にコワレスカヤのコマと呼ばれた次の条件の場合の積分でした。
■ A=B=2C かつ重心と固定点の鉛直座標値が一致している
コマとはいうものの、コワレスカヤのコマは、先の二つのコマとは違って、実際に工作できるようなコマではなく、あくまでも数理上のコマのようです。コンピュータでその動きをシミュレーションすると、不安定このうえなく、とても“眠りゴマ”状態は期待できないもののようです。
さて、ボルダン賞受賞から3年後の1891年、ソーニャは突然のような死を迎えます。死の床にあった最愛の姉や離れて暮らすことの多かった娘との会合にストックホルム、ロシア間の旅が多くなり、最後の旅の時、ストックホルムに着く前にインフルエンザに罹り、それが死の病となってしまったのです。時に、まだ41歳という若さでした。
最後に、先に触れたソーニャに絡むエピソードの件です。これは、100%作り話でしょうが、内容が最高に面白いので、結構ご存知の読者もおられるでしょうが、初めて聞く、という方もおられることでしょうから、あえて紹介しておきます。
ノーベル賞のことです。ご存知のようにノーベル(Nobel:瑞典1833-1896)はスウェーデンの出身です。やはり同国生まれのミッタグ・レフラーとは、どういうわけか仲が良くなかったらしいです。一節には、ソーニャと仲が良かったミッタグ・レフラーのことをノーベルが妬んでいたというのです。それで、ノーベル賞を創設する際、数学部門を設けると、ミッタグ・レフラーが受賞するかもしれない、という懸念で数学賞が外されたというものです。実に人間臭いエピソードですね。
2014年初夏記