FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第6話 勃興期の人材に求められるものは

明治初期、フランス語を通じて西欧学問を学ぼうとする時期がありました。明治6年(1873)、東京大学の前身である開成学校で“仏語諸芸学科”というのが英語コース学科、独語コース学科とともに併設されました。その2年後には、“仏語物理学科”に名称変更され、これが明治10年(1877)、東京大学が創設された際にも継続されたのですが、結局は、明治14年(1881)に廃止されることになります。

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近代日本の勃興期の混乱というのか、西欧学問を輸入するに当たって、範とする国の選別に迷っている上、いったい何を学ぶべきかも分からない状況だったことを示すのが“諸芸学科”という名称に表れています。今の時点から見ると笑えますね。

仏語コースは短命でしたので、その後の日本では理系学問の主流とは成り得ませんでしたが、フランス語で物理を学んだ有志の人たちが残こした記念的事績があります。“物理学校”の創設です。あの漱石作の“坊っちゃん”の主人公の出身学校でもあります。この学校が現在の東京理科大学の前身です。

 

明治初めには、やはり短命だった“貢進生制度”というのがありました。新国家建設を担うべき人材を養成するため、明治3年(1870)、明治新政府は石高に応じた人数の人材を推挙することを各藩に命じました。こうして、各地から貢進生が東京に集められたのですが、この中には、われわれがよく知る人物もいます。日向国飫肥藩(現宮崎県日南市)からは、後に外交分野で腕を振るった小村寿太郎(1855-1911)が選ばれました。美作国勝山藩(現岡山県真庭市)からは、先の首相鳩山由紀夫氏の曾祖父である鳩山和夫(1856-1911)が選ばれています。

貢進生はずいぶん優遇されており、月々の手当のほか、書籍代として、今の金額で50万円ほどが支給されたとのことです。時の新政府の期待がいかほどのものであったかが知れますね。ところが、翌年の明治4年には、廃藩置県が実施されたため、貢進生制度が意味をなさなくなり廃止されてしまいました。ですが、貢進生たちの勉学そのものは、依然として東京大学の前身組織である南校、東京開成学校でできたようです。

明治8年(1875)、文部省が明治3年入学組みの貢進生を対象として初の官費留学生を送り出しています。上の小村も鳩山ももちろん留学しています。この時の留学生の中に、フランスへ向かった古市公威という青年がいました。土木分野以外の人には初耳の人物かもしれませんが、後年、土木学会初代会長を務める土木界の一番の大物であるというよりも、明治の元勲の一人山県有朋の贔屓にもなっていた人で、大正、昭和初期工学界の元老でもありました。

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古市公威(1854-1934)もやはり、明治3年、姫路藩から推挙された貢進生でありました。実は貢進生に選ばれる前から大学南校(開成所の後身)に入学しており、フランス語科にいたところ、後の組織替えの際に仏語諸芸学科に進んだようです。ですから、古市は、仏語コースと貢進生という明治初期の二つの特異な体制の体験者ということになります。

明治期の文明開化ストーリーを読んでいると、ときおり古市公威の名が出てきます。司馬遼太郎さんも、どこかで古市のエピソードを紹介していました。古市のフランス留学中、あまりの勉強ぶりに、体のことを心配した下宿のおばさんが、「たまには休んだら」といったところ、「僕が1日休めば、日本が1日遅れるのです」と古市が返したそうです。日本男児と生まれたからには、生涯に一度でもいいから、こういうセリフを吐きたいものですね。

土木出身の筆者も、古市公威について深くは知らないのですが、上のエピソードからうかがえる勉強ぶりや、彼が還暦の時、周囲からの祝い金を頑として受け付けなかったため、そのお金が土木学会の創設資金になったという逸話などから、なかなかの人物だったように思えるのですが、彼のことを酷評している書籍があります。

先年亡くなられた小林一輔というコンクリート工学の先生がおられました。小林先生は、10年ほど前に出した“コンクリートが危ない(岩波新書)”というセンセーショナルなタイトルの本で、その名が一般人にも広く知れ渡った先生ですが、“コンクリートの文明誌(岩波書店)”というちょっとユニークな本も出されています。この本の中で、古市公威のことを断じています。

日本の土木技術者が“シヴィル・エンジニア”でなく“土建屋”と揶揄される素地の源泉を“日本近代土木の祖”と呼ばれる古市公威に、小林先生は求めています。また、行政手腕は買うものの、学者としての業績にはみるべきものは無かったとも断じています。しかし、小林先生の古市評伝は少し酷のように思えます。土木業界の社会的ダメージ(これは日本だけかもしれませんが)は確かに存在しますが、その責任の源泉を古市公威一人に求めるのは古市に気の毒だと思います。

また、学者業績にしても、時代背景を考えてやらねばと筆者は思うのです。古市の生誕年はなにしろ安政元年(1854)です。姉妹エッセイ“理系夜話”で登場してもらった山川健次郎(第15話27話)が同年の誕生であり、菊池大麓(同第27話)が安政2年(1855)であり、同世代の人たちです。この人達が青壮年期を迎えた明治前期は近代日本の揺籃期です。この時期は西欧の科学技術の輸入、模倣の時代であり、その一方で今後の体制作りの設計に余念がなかった時代でもあります。近代科学技術立国船出の日本にあって、それを担う第一期生ともいうべき古市らは、自ずと教育行政で活躍する宿命にあったと思います。山川にしても菊池にしても同様だったのですから。

2010年9月記

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