FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第7話 お雇い外国人第1号

以前、海面を横たわるような道路上を車が走るテレビのCM映像がよく流れていたことを読者は覚えておられるでしょうか。あのシーンは、山口県・下関市の日本海側にある角島(つのしま)に架けられた多径間の道路橋である“角島大橋”をベースにしたCGです。

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角島は、映画“四日間の奇蹟”のロケーションにも使われた所で、この映画撮影がきっかけで一躍有名になったようです。筆者もこの映画を観た一人ですが、主役の石田ゆり子さんの残像と映画の中の主舞台である病院の設置場所が気になった映画でした。

後に映画のロケーション地とCM映像の背景が同じ角島であることが分かってから当地に興味を持ってしまい、とうとう昨年(2009年)の春、角島まで旅行に出かけてきました。行ってみて少し驚いたのは、島が想像していたよりも大きかったことでした。島内には学校までありました。車で島の先端まで進むと、立派な灯台(角島灯台)が立っていました。

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意図した訳ではないのですが、筆者は、この角島灯台訪問をきっかけに、和歌山県・串本町の潮岬、北海道・根室市の納沙布岬と、立て続けに日本で有名な灯台のある土地を訪れることになりました。そして、行く先々の案内板で、一人の外国人の名前を見つけることになります。その名とは、スコットランド出身のリチャード・ヘンリー・ブラントン(R.H.Brunton;英1841-1901)です。明治初期に日本各地の灯台建設を指導したエンジニアだったので“日本灯台の父”と呼ばれた人です。

ご存知のとおり、明治新政府は、富国強兵のスローガンとともに殖産興業を重要政策に掲げましたので、鉱業、鉄道、造船という工業分野に重点的に予算を割り当てましたが、明治のごく初期の段階では、なんといっても灯台分野に最大の予算を充てていました。それは、開国による外国船の出入が増えたためでもありますが、最大の理由は、条約変更のバーター的義務があったためであります。というのも、安政5年(1855)に江戸幕府が欧米各国との間で結んだ通商条約の中に、大阪・兵庫の開港という条項があり、朝廷を刺激することを恐れた幕府側からの延期願いの代償の一つに、外国側から航海の安全を期した灯台設置が求められていたのです。その義務遂行のため、新政府は英国に技術者の派遣を依頼したのが、日本とブラントンとの縁ができたきっかけとなります。

一方、人材を求められた英国側としても、自国内においそれと灯台技師がいたわけでもありません。スコットランド地方に灯台の設計では有名なスティーブンソン社という兄弟で灯台の設計を請け負っている兄弟社がありました。今で言う建設コンサルタントでしょうか。政府から日本への技術者派遣の委託を受けたスティーブンソン社は、自分たちが出向くわけにもいかず、一般公募をすることになります。この時に、応募して合格したのが、ブラントンだったという次第です。

ところで、意外なことにブラントンは、この時まで灯台の専門家ではありませんでした。その時点では、彼は27歳で、それまでは鉄道建設の仕事に従事していたのです。合格後、急遽3ヶ月のスティーブンソン社での研修を受けて、日本へ旅だったという慌ただしさです。受け取り方によっては、明治新政府もずいぶん、馬鹿にされた感じですが、それでも日本の灯台建設で問題が生じたというわけでもないし、むしろ彼はエンジニアリングセンスが良かったようで、後で述べるように灯台以外でもずいぶんと新生日本に貢献しているのです。

ブラントンが来日したのは、明治元年(1868)だったので、それまでも江戸幕府がオランダ、フランスから呼んだ先駆的なお雇い外国人がいたというものの、明治新政府が招聘したお雇い外国人では第1号となります。

明治政府がいかにお雇い外国人を優遇していたかはよく知られた話ですが、その大盤振る舞いがどの程度だったか、ブラントンを通じて一つ垣間見てみましょうか。ブラントンは明治元年の来日から明治9年の帰国まで在日(一時的帰国あり)した人ですが、その間の平均月収が600円だったみたいです。ちょっと調べたところ、明治7年当時の大久保利通の月収が500円です。その時の大久保といえば、実質今の総理大臣の位置にあった人です。この二人の比較をそのまま現在に適用すれば、この数年の総理大臣の年収が約5,000万円だそうですから、単純に想像して約6,000万円の収入をブラントンは得ていたことになります。しかも、住宅の無償貸与、日本への往復旅費の政府負担と至れり尽せりです。ブラントンは大学を出た高学歴のエンジニアではなく、(鉄道)建設現場の叩き上げ技師で、しかも助手だったという人でした。
30歳前の一介の技師が日本に来て、こんな高額収入者になるという東洋の後進国、日本の姿でした。今、日本の新幹線技術を各国に売り込んでいるようですが、上のような待遇で日本のエンジニアを迎えてくれる国はあるでしょうか、ないでしょうね(笑)。

閑話休題。筆者は横浜スタジアムに一度しか行ったことがないので、よく知らないのですが、隣の公園が横浜公園というそうですね。この公園の一角に、ブラントンの胸像があるそうです。これは、当地の道路整備や橋梁架設にブラントンが一役買っており、横浜の街づくりの恩人ということから立てられたようです。

灯台技師として招かれたブラントンは当然、灯台建設が主業務だったのですが、当時、近代工学が分かる人物が日本にほとんどいなかったゆえ、時の政府からいろいろアドバイスを求められていたことが、彼の日本滞在記に記されています。元々、鉄道技師であったことが幸いして、彼は、鉄道に関連する工学で、日本初の名誉をいくつか持っています。その代表例の一つが、東京、横浜間の日本初の本格的電信工事であり、他には今も横浜に名が残る日本初の鉄橋(吉田橋)の設計でした。

さて、ブラントンの話を終えるに当たって、非常に興味深い話を追記しておきます。先に、ブラントンを灯台技師として採用したスティーブンソン兄弟社のことを紹介しましたが、読者はこの名を聞いて、何か連想しませんでしたか。そう言われると、つい蒸気機関車のスティーブンソンを思い浮かべるかもしれませんが、そうではありません。

“宝島”や“ジキル博士とハイド氏”の作品で有名な作家スティーブンソンがスティーブンソン兄弟社と関係しているのです。なんと、彼の父親と叔父が共同で灯台設計のコンサルタントをやっていたのがスティーブンソン兄弟社だったのです。作家スティーブンソンも元々、父親から灯台技師になることを期待されていたみたいで、実際、最初はそのコースを歩みかけていたのですが、どうしても工学の分野に馴染めず進路変更した経緯があったようです。

昨秋(2009年)、出版された本で、“知られざる「吉田松陰伝」(よしだみどり著、祥伝社新書)”という面白い本があります。タイトルからは予想もできない、作家スティーブンソンと吉田松陰の関係、さらに興味深い話が本の中で紹介されています。“理系夜話”第52話で登場してもらった物理学者ユーイングがスティーブンソン一家と付き合いがあったという話です。人間の縁というものは、まことに興味深いものですね。

2010年10月記

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