FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第5話 古都の近代科学のひとこま

筆者は昨年(2010年)、とうとう年金生活者の仲間入りをしました。その準備で、何度か京都市中京区の社会保険事務所に通いましたが、その都度、事務所の対面にある銅駝美術工芸高等学校という一風変わった名称の学校の前を通りました。

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“銅駝”というのは、この辺りの地名を指すのですが、関西で言う、けったいな名前なので調べてみると、やはり由緒ある名称でした。

漢時代の中国の都洛陽から西域への起点の地に駱駝の銅像が建てられていたそうです。それに由来して、平安京建都の際にそのネーミングを使ったのが、今に至る地名といいます。地理的には、京都市内を南北に走る河原町通りを挟んで京都市役所とホテルオークラが立っていますが、そのオークラのある場所の周辺地域を指すみたいです。

 

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ところで、この銅駝校のある場所に、明治の初年、京都舎密局というのがありました。“舎密(せいみ)”というのはオランダ語で化学を意味する“Chemie”から音訳された用語です。舎密局とは、今で言う理化学研究所です。この施設は、京都府第二代知事であった槇村正直(“湖西紀行7話”第5話参照)が、東京遷都で沈滞化しつつある京都を憂えて明治3 年(1780)に設立したものであります。

ここで、突然ですが、下の問題を考えてみてください。

 

(Q)明治3 年(1780)、京都府は理化学および化学工業技術の近代化を進めるため舎密局を設置したが、医師であり、理化学の専門家として舎密局の開設に尽力したのは誰か。

 

(ア) 明石博高
(イ) 田中源太郎
(ウ) 浜岡光哲
(エ) 島津源蔵

 

読者の皆さん、この問題わかりますか。知らない名ばかり並んで、難しいと思った方が少なくないと想像します。これは、平成17 年度に出題された京都検定2 級の問題の一つでした。正解は、(ア)の明石博高です。さらに、問題を追加するとすれば、「この人名の読み方は何と読みますか」、と設定できるかもしれません。“博高”は“ひろあきら”と読むのですよ。これから、京都検定を初受験しようと思っている方をおじけづけさせてしまったら、申し訳ありません。歴史好きの私でも、ちょっと難しい問題の部類だと思います。

閑話休題。明石博高(1839-1910)は、今では忘れられた科学者というべき存在ですが、元々京都生まれの医者でした。本業以外にも、物理、化学などを学ぶ博覧強記にくわえ、数カ国語をものにするという、京都では名の知れた人物のようでした。日本の科学史で彼の名がほとんど出てこないのは、ローカル色が濃厚だったのと、後年は科学と神学を結び付けるなど宗教色が強くなったためと想像します。その彼が一時期、同志社英学校の設立にも貢献した山本覚馬(会津藩出身)とともに、京都府知事槇村正直の政策ブレーンであったことがあります。明石は、京都の前に設立されていた大阪舎密局に助手で務めており、京都にも舎密局を設立するよう建策をしたのでありました。

京都舎密局は、結局は明治14年(1881)、槇村正直の転任の際に閉鎖されるのですが、この施設の存在が、後に京都発祥の有力企業を産むという孵化器にもなっていたのです。

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舎密局に頻繁に出入りして、科学の耳学問に励んだ一人の人間がいました。京都で江戸時代から続く家業を営んでいた初代島津源蔵(1839-1894)でした。彼は、明治の御代になって、科学に啓蒙され、舎密局に出入りしては、技師を手伝ったり、手先が器用なものですから、科学器具の修理をしていました。

病膏肓に入り、次男でもあった初代源蔵は明治8年(1875)に家業から独立して、島津製作所を創業します。今では、学校で使用する理科器具類を納める会社が何社かあると思いますが、京都舎密局近くに創業した島津製作所はそのはしりでありました1

初代源蔵の特記事項としては、明治10年(1877)に、京都御苑内にある仙洞御所の場所で、人を乗せた水素ガスの軽気球飛揚にも成功しています。

明治27年(1894)、初代の急死で、長男が二代目島津源蔵を世襲することになるのですが、この人こそ、初代に負けず劣らず、後年大躍進していく島津製作所の礎を築いた人といえるでしょう。二代目は研究心旺盛な人で、発明の才もあったようです。なんと、レントゲンがX腺を発見した翌年の明治29年には日本で初めてX腺写真の撮影に成功したといいます。彼が向けたベクトル方向こそ、現在医療機器分野で躍進している姿があり、ずっと後年、民間企業在籍という田中耕一さんがノーベル化学賞を受賞する異例の国民的慶事も誕生したわけです。

ところで、島津製作所の創業は明治になってからでしたが、島津家の家業は江戸時代から続いており、それはなんと仏壇屋だったのですよ。この話題なんか、トリビア物ではないかと思いますが、それにしても古都・京都にはさすがに古くから続いている商店が多くあるものです。いつだったか、京都の地下鉄の座席に座っていたときのことです。前に座っていたご老人二人がなにやら商売関係のことを話していました。車両内は空いていたので、二人の話はよく聞こえていました。そのうち、一人が言いました。「ところで、お宅のお店、いつの創業でしたかな」と。すると、相手の人が答えました。「いや、うちは新しいですわ。慶応3 年です」。聞いていた筆者は思わず笑ってしまいました。

最後に、島津源蔵に関して、つい「へえ」と言ってしまいそうなトリビア二つを追加して終わりとします。

その1

島津という名前から、しかも、島津製作所の社章が丸に十文字だから、島津一族はてっきり、薩摩の島津家と血縁関係があると思ってしまいますよね。ところが、全く血縁関係はないのだそうです。島津源蔵の先祖は姫路の人だったそうです。戦国の昔、関ヶ原の戦いに敗れた島津義弘が薩摩に引き上げる途中、海難に遭ったところを救った人だということです。この功により、薩摩島津家から、島津の名と丸に十文字の家紋を使用することを許されたのが由来といいます。

その2

車のバッテリーをたいがいの人は、一度は見ていると思いますが、そこに“GS マーク”があることも記憶にあるかと思います。蓄電池メーカーの商標ですが、このGS は島津源蔵の頭文字(Genzo Shimadzu)から取られていることはあまり知られていません。二代目源蔵は蓄電池の開発にも成功し、後に蓄電池工場を独立させて専門会社(現GS ユアサ)も創業させています。

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大正6 年(1917)、米国から電気自動車を購入し、自作のバッテリーに入れ替えて、京都市内をCO2 も出さずに縦横に走っていたそうです。「石油のない日本では、電気自動車でないといかん」と常々言っていたといいますから、今の時代を先取りしていたのですね。

2010 年4 月記

  1. 森鴎外の“高瀬舟”の舞台にもなった高瀬川源流地に(現木屋町二条下る)、島津源蔵親子の遺徳を偲んで、“島津創業記念資料館”というのが建てられて、一般公開されています。 []

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