FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第27話 武士道物理学者三代記

今年(2004)の初め、日本でロングランを続けた洋画に“ラストサムライ”がありましたね。明治10年の西南戦争をモデルにしているようですが、さすがに戦闘場面の迫力さは邦画には真似できないものと感服はしたものの、日本文化を強調するあまり明治の御世に忍者や鎧、甲冑の武者を登場させるなど、内容は荒唐無稽だったと筆者は評価していますが、どうでしょうか。

ただ、1つの副次効果を世間に与えたようです。しばらく忘れられていた日本の“武士道”が少し思い出されたようです。上映期間中から書店の店頭には、その昔、世界に日本の武士道を知らしめた新渡戸稲造(1862-1933)の著書が並べられていたことに気づかれた方も多いでしょう。

その武士道が人生の背骨になっていた一人が、第15話(地方の実力)で登場してもらった山川健次郎(1854-1931)です。 山川は明治4年、18歳の時、アメリカのエール大学に4年間ほど留学しています。その際、何を学ぶか迷った末、理学を選択しました。西欧から随分と立ち遅れている科学技術の分野で日本国に貢献したいと思った結果でした。少年のころ、悲劇の会津城陥落を眼前にした彼にとっては、賊軍の汚名を着せられた一族という屈折したそれまでの過程がありました。

山川の生涯をみると、研究者というよりも教育者であり、特に高潔な人格のため、人生後半は教育行政面で活躍した人でした。その山川が帰国後、東大物理学教室を担当して、最初の学生が新渡戸稲造と同じく南部藩の出である田中館愛橘(1856-1952)でした。

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この田中館も進路を決める際、法化へ進むべきか理化を選択するかで大いに悩んだらしいです。物理で飯が食えるなど考えられない時代のことでしたので、悩むのは当たり前であったのでしょう。結局、理化を選ぶのですが、西欧の哲学が和学の思想に勝るとは思われない。理化こそ西欧に学ぶべきことが多々あるというのが、その選択理由でした。気骨ある明治人の面目躍如たるものがありますね。

田中館には特筆すべきことがあります。東大在職25年、満60歳のおり、突然、辞表を出したのです。当時の大学に定年制があったわけでもなく、辞表理由があったわけでもありません。要するに勇退ということです。この事件(?)がきっかけで日本の大学に停年制が敷かれたといわれています。

明治の日本のことです。物理分野には極めて人材が少なく、山川と田中館が物理の後継者を求めて目を皿のようにしていた頃、一人の有望な人物が二人の目に留まりました。九州、大村藩出身の長岡半太郎(1865-1950)でした。まさに金の卵です。長岡が別のコースを選択するのではないか、と山川と田中館の二人はひやひやしていましたが結局、欣喜雀躍の結果となりました。

しかし、実は長岡の勉学も単純ではなかったのです。西欧の科学を見せつけられて、一体、日本人に科学を研究する能力があるのかと悩んでしまい、ついには休学してしまった時期があるのです。この休学期間こそ、凡人とは違う長岡半太郎を証明しています。この間、中国古典の書籍を読み漁っていたのです。イギリスの有名な物理学者レイリー(Rayleigh;英1842-1919)がようやく説明している空の青さを大昔の中国の“荘子”で論じられていることを発見するなどして、東洋人にも科学の能力があることを確信した経緯があったのです。

山川健次郎、田中館愛橘、長岡半太郎、ともに明治維新前に生まれ、ともに昭和の時代まで生きた物理学者3人です。その処世をみていると明治の気骨を見る思いがしますね。

2004年9月記

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