第2話 技術屋社長のはしり
昨年(2008)創立150周年を記念して、慶応義塾大学が大阪キャンパスを開設した話題が記憶に新しいですね。ところで、明治の初めにも同じようなことがあったのを読者はご存じでしょうか。短命でしたが、慶応義塾の大阪分校があったそうです。京都にも分校が開設されたようです。しかし、学生数が少なくて両分校は1年ぐらいで閉鎖されたそうです。
慶応義塾の創設者福沢諭吉はなにかと大阪(当時は大坂)の地に縁があった人です。そもそも生誕地が大坂なのです。彼は豊前中津藩(今の大分県中津市)の藩士ですが、父親が藩の大坂蔵屋敷に勤めていた時に生れました。その父親は、諭吉が二歳にも満たないときに急死してしまい、残った家族は帰郷することになりますが、青年期に諭吉は、また大坂に出てきて、当時有名な蘭学者だった緒方洪庵の適塾に学んだことはよく知られていますね。
今夏(2009)、大阪市立美術館で、“福沢諭吉展”なるものが開催されていました。筆者も一度、のぞきに行きましたが、そこで一つの発見をしました。“理系夜話”第31話に登場してもらった山辺丈夫が、なんと、短命だった慶応義塾・大阪分校に在籍にしていたのです。大阪分校の名簿記録にはっきりと彼の名が記載されていました。今回はもう一度、この山辺丈夫(1851-1920)の話をしてみます。
山辺は明治10年(1877)、26歳の時に、旧藩主(石見・津和野藩)のお供をして、英国の地にありました。ロンドン大学に留学していて、経済学、特に保険について学んでいたといいます。この時、何の面識もなかった渋沢栄一から一通の手紙が日本から届きました。日本で紡績産業を起こしたいから、英国で紡績のことを学んでほしいという依頼でした。山辺の若い頃、郷土の先輩、西周の塾に学んでいたことがあるのですが、その時の同僚が人材を探していた渋沢へ山辺のことを紹介した経緯があったようです。
頼むほうも頼むほうですが、頼まれたほうも頼まれたほうです。なんと、山辺はOKの返事をして、以後、機械工学に方向転換してしまいます。それだけではありません。現場の知識も必要と思い、マンチェスター近くの工場で一職工としても働いています。人種的偏見もあった外国の地で、日本の殖産興業化の期待を担って、孤軍奮闘する山辺の姿を後世のわれわれは思い知るべきですね。この時の、紡績業の現場知識と産業システム全体の習得が、近代日本の最初の基幹産業である紡績業の牽引役の第一人者として山辺丈夫の名を歴史に名を留めさせたのでした。
帰国後の山辺丈夫は、紡績会社の工場支配人から後に社長を務めることになるのですが、事の成り行きからオーナー社長ではありませんでした。彼の経歴を見れば分かるとおり、いわゆる、雇われ社長です。ですが、見方を変えれば、技術者から社長になった、“技術屋社長”のはしりでもありました。
一技術者(今風に言えば、エンジニアーですか)から身を起こし、会社を創業して、後には日本の大企業にまで育てたという、立志伝中の人物は何人かいますが、ここで、代表的人物4 人とその企業を見てみましょうか。
服部金太郎(1860-1934)/セイコーグループの元祖
明治14 年 服部時計店創業
明治25 年 精工舎創設
大正 6 年、株式会社となり社長就任
松下幸之助(1894-1989)/パナソニックの元祖
大正 7 年、松下電気器具製作所創業
昭和10 年、松下電器産業株式会社の社長就任
早川徳治(1893-1980)/シャープの元祖
大正13 年、早川金属工業研究所創業
昭和10 年、株式会社となり社長就任
豊田喜一郎(1894-1952)/トヨタ自動車の元祖
昭和 8 年 豊田自動織機製作所内に自動車部設置
昭和12 年 トヨタ自動車工業株式会社創設
事ほど左様に、個人店規模ではない会社規模での技術系経営者は日本では大正時代以降に生まれていることが分かります。それに比べて、山辺丈夫は、
明治31 年、大阪紡績社長
大正 3 年、東洋紡績(三重紡績と合併)社長
の経歴を持ち、随分早い時期での技術系経営者でありました。もっとも、もし渋沢からの依頼がなかったとしても、山辺丈夫のことですから、日本の保険会社の第一人者になっていたことでしょう。
2009年10月記