FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第3話 イモに名を残した造船屋

第2話で登場してもらった山辺丈夫が英国ロンドンで、保険学から転向して機械工学を学んでいた同時期の1877年(明治10)、やはり造船学を学ぶため同国北部にあるグラスゴー大学に留学に来ていた一人の若者がいました。その名を川田龍吉(1856-1951)といいました。土佐藩出身の下級武士の生れで、やはり同藩の岩崎弥太郎が創設した三菱会社からの私費留学生でした。

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川田龍吉には、英国滞在時にラブロマンスがあり、結婚の約束もして帰国の途につくのですが、それは実りませんでした。当時の恋文百通が昭和のずっと後年に発見されるというエピソードまであります。

後年の森鴎外の作“舞姫”に描かれたごとく、明治の御代、欧米に留学した若者たちは、当地の女性たちとの交際も結構あったようです。しかし、若気の至りと言ってしまえばそれまでですが、不誠実な付き合いも多かったようです。森林太郎の場合も、どちらかと言えばそちらのようです。もっとも、当時日本に来ていたお雇い外人たちにも同様のことがありました。男女間の問題は万国共通ですね(笑)。しかし、川田龍吉の恋に関しては誠実な恋物語でした。

さて、川田龍吉のことを話すには、彼のオヤジ殿のことから話さなければならないほど、龍吉は父親の影響を受けています。彼の前半生は父親の引いた路線を歩んだ形跡なのでした。

 

龍吉の父親は、川田小一郎(1836-1896)といいました。川田家は土佐藩の貧乏郷士の出であり、それが小一郎の立身出世欲に結びついています。彼は同郷の坂本竜馬より一歳年下の生れでしたが、勤皇倒幕運動に走ることもなく、むしろ藩内の能吏に活路を求める人間でした。

たまたま、幕末のぎりぎりに土佐藩が討幕側に立ったため、維新劇場において小一郎がプラスイメージの端役を演ずる場面がありました。明治元年、伊予の別子銅山を押さえる命令が新政府から土佐藩に出て、その役目が小一郎に回ってきました。別子銅山は後の三大財閥の一つである住友家の屋台骨ともいうべき事業であり、これを取り上げられることは、住友家にとっては一大事でした。このとき、住友側からの懇願により、小一郎は新政府要人間を奔走してまわり、住友の窮地を救ったのでした。川田小一郎という人は、後に岩崎弥太郎が三菱を創設するのを助けて、その大幹部となる人ですが、住友家でも恩人であったところが面白い経歴ですね。

川田小一郎には、もう一つ面白い逸話があります。貧窮の身から大出世した人によく見られるケースで、出世につれだんだん尊大になっていく人がいますが、彼もそのタイプでした。明治22 年(1889)、彼は日本銀行総裁の就任を要請されます。この日銀第3 代総裁時のエピソードですが、ある時、大蔵大臣に用ができました。このとき、自分から出向くのではなく、大蔵大臣を呼びつけたということです。おそらく、歴代の日銀総裁の中で、一番えらそうにしていた総裁ではなかったでしょうか。

こういうオヤジ殿ですから、息子の龍吉は父親のくびきから離れられず、小一郎の命ずるままの前半の人生航路でした。三菱への入社も、英国への留学も小一郎の意向でした。そして、英国から帰国した龍吉が金髪の英国女性との結婚を希望するも、小一郎の断固反対で成就しませんでした。むしろ、故郷土佐の女性との強制結婚をさせられています。

龍吉の転機は明治29 年(1896)、父小一郎が急死してからです。この年、龍吉は既に40 歳を迎えていました。小一郎が受けていた爵位、男爵を引き継ぐことになります。これが、川田龍吉の名を後世に残すことになるとは、人生とは皮肉なものです。

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父親の死の翌年、横浜ドックという会社の社長に就任します。その在任期間6 年間と、財界の大御所渋沢栄一の要請により、明治39 年(1906)、経営危機にあった函館ドックの立て直しに乗り込んでから、その役目を辞任するまでの5 年間が造船屋としての龍吉の真骨頂の期間ではなかったでしょうか。この期間が彼の人生第2 幕であり、龍吉には、その後も長い第3 幕の人生が待っていたのです。

 

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平成の大合併で出来た北斗市という新しい市が北海道函館市の西隣りにあります。函館に行かれた方はご存じだと思いますが、函館湾はきれいに半円を描いています。この半円の西2/3 は北斗市の市域です。函館から車で湾岸ドライブして、半円を過ぎてもう少し進むと右手側に“男爵資料館”という看板を目にします。

JR 江差線および国道228 号脇の場所に、川田龍吉が農事に従事したという農園の跡地が保存されています。この地に男爵資料館があり、彼の業績を記念して、多くの農機具に交じって、龍吉の英国滞在時のロマンス相手の金髪の一房が封印されていたという金庫があります。筆者も一度、訪れたのですが、そこには、彼が日本で第一号のオーナードライバーとなったという蒸気自動車の複製も展示してありました。

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明治44年(1911)、函館ドックを辞めてからは当地で農場づくりに専念することになります。時に55歳のときでした。元々、龍吉は子供のころから、土や農事に興味を持っていた人で、父親の干渉がなければ、造船学ではなく、農学方面に進んでいたことでしょう。函館ドック時代からも、農事に携わっていました。特に北海道という地が、自分の若かりしころ過ごしたスコットランドの気候風土に似ていると感じた彼は、ジャガイモの育成を思い立ち、海外から種イモを多く輸入しては試作することになります。この中から、現在われわれが“男爵いも”と呼んでいるジャガイモが普及することになったのです。もちろん、川田龍吉男爵からの命名であることは言うまでもありません。

川田龍吉は長生きしました。安政3年(1856)の生れで、昭和26年(1951)、95歳で亡くなっています。

2009年12月記

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