FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第1話 信州の人々

20世紀物理界の巨匠の一人、ポール・A・M・ディラック(Dirac;1902-1984)は、父親の教育方針の影響のためか、長じても極端に無口で内気な性格になってしまいました。日常会話での語彙が、「うん」、「いいや」、「わからない」の三語に限られていたという話もあるぐらいです。また、ノーベル賞学者ディラックを喋らせたら、それこそノーベル賞を貰える、といった話もあったとかないとか。

そのディラックが、一時期米国の地方大学へ行ったときの話です。天才物理学者が来たということで、地元新聞社の記者がインタヴューにディラックを訪問しました。相変わらず、「うん」と「いいや」の返事しか返ってこないインタヴューの最後に、記者がやっと固有の返事をもらえた質問ができました。「博士、世間では、あなたとアインシュタインだけが真の知識人だと言われていますが、そのあなたでも理解できない人間がいますか」と。すると、意外にもディラックの口から、「ワイル」という返事が返ってきたといいます1

ディラックに名指しされたワイルという人物は、ヘルマン・ワイル(Weyl;独1885-1955)のことで、20世紀数学界での大数学者の一人です。物理数学から抽象数学まで幅広くこなしたという最後の万能型数学者だったともいわれている人でありました。

1-a

ワイルには悲痛なる数学人生の決断がありました。数学の歴史には、聖地ゲッチンゲン大学に流れる数学の大河がありました。ガウスに始まり、ディリクレ、リーマン、ヒルベルトと各時代を代表する錚々たる数学者によってバトンリレーされてきた歴史があり、20世紀中葉から後半にはヒルベルトからバトンを受けるのはワイルであることが、自他とも認めるところでありました。ところが、そうはならなかったのです。ナチスの台頭により、ワイルは米国に亡命したからです。アインシュタインからの再三の招聘を受けて、悩んだ末プリンストン高等研究所に研究拠点を移すことになりました。以後、さしものゲッチンゲンもそれまでの栄光の輝きを失ってしまいました。

プリンストンにいるワイルに論文が目にとまり、1949年、高等研究所に招聘されたのが、日本が誇る数学者小平邦彦(1915-1997)です。言わずとも知れた、フィールズ賞受賞の日本人第1号の数学者です。小平は、以後しばらくは米国で学者生活を送ることになります。渡米の際、やはり有名な物理学者オッペンハイマーに招かれて高等研究所まで同行したのが朝永振一郎でした。先に渡米生活を送っていた湯川秀樹ともども三人の交流話が小平の著書2 で語られています。日本からの頭脳流出が問題視され始めたのもこの頃でなかったでしょうか。

1967年、小平が日本に帰国して東大に復職したとき、数学教室に在籍していたのが、“品格”ブームの火付け役、藤原正彦(1943- )でした。今では、名エッセイストで名を馳せていますが、藤原の人生の大部分は数学者なのです。小平邦彦と藤原正彦の二人、後には、藤原夫婦の媒酌人を小平が務める間柄となりますが、数学者という共通点以外にも、大きな共通点がありました。

二人の体には、実は信州(長野県)気質という血が濃く流れているのであります。表向き、小平は東京生まれ、藤原は満州生まれとなっていますが、それは父親の職場の関係でそうなっただけで、二人の両親はともどもちゃきちゃきの信州人なのです。彼らの父親の系統は先祖代々、信州諏訪地方の士族だったのです。

藤原一族には、さらに興味深いことがあります。藤原正彦の父親が作家新田次郎(本名藤原寛人)であることは広く知られていますが、彼が新田次郎であったのは人生の晩年であり、それまでは長く気象台に勤める技術者でありました。さらに、新田次郎の叔父、正彦にとっては大叔父にあたる人に、藤原咲平(1884-1950)という有名な気象学者がいました。この人は、年齢に大差がある訳ではなかったですが、寺田(寅彦)門下生の一人でもありました。中央気象台長を務めたこともあり、世間的には“お天気博士”と呼ばれて、日本の気象学の歴史の中で一番有名な人だと思います。こう見てくると、諏訪地方は理系人を生みだす何か“種”のような物があるのかと思ってしまいますね。

1-b

信州人の一番の特徴として、“理屈っぽい”ことがよくあげられます。信州人の理屈っぽさと言えば、筆者はつい、道路族と丁々発止をやっていた猪瀬直樹氏を思い浮かべます。信州人の理屈っぽさを知りたければ、彼のしゃべりを聞けばいいと思います。ただし、あのねちっこさは猪瀬氏独特のものでしょうが(笑)。

昔、何かの本で書いてあった文章ですが、「毎日まいにち、ゴツゴツした日本アルプスの山々を見ている信州人は、自然と性格が理屈っぽくなる」というのがありました。これが、「ふとん着て寝たる姿や東山」の丸い東山を見ている京都人では、「どちらでも、ようおすえ」になってしまう、と言います。なるほど、と変に納得してしまったことがあります。

理屈が商売の道具である数学や理科といった硬い分野で、信州の人たちが活躍できるのもむべなるかなですね。そういえば、新田次郎が後に奥さんとなる人と見合いしたとき、「こんな理屈っぽい女性が家内になるのはいやだな」と感想を持ったという話が、正彦の母藤原てい3 のエッセイにありますが、笑ってしまいますね。

理系人ではありませんが、藤原咲平と同時代、同郷だった人に、岩波書店の創業者岩波茂雄(1881-1946)がいます。また、陸軍軍務局長時代に官舎内で刺殺されるという陸軍史でも異例の事件に遭った永田鉄山(1884-1935)がいます。この三人は仲がよかったといいます。いかにも、信州の諏訪地方が硬骨漢を輩出しているかの感想を持ちますね。

冒頭から、芋づる式に人物を引用してきて、最後に信州の人たちにたどりつきましたので、以下、信州気質についてさらに触れてから終わりとします。

時折テレビで県民性をテーマにした、面白おかしく脚色した番組をやっていることがありますね。また、そういった内容の本もよく出版されていますが、全国の都道府県の中で一番、個性的な所と言えば、読者はどこと思われますか。筆者はいの一番で大阪府であると思うのですが、どうでしょうか。広く知られているあの強い個性を見ると、たぶん異論は出ないと思うのですが。

さて、NO2はどこかと言えば、筆者の独断では長野県を是非あげたいですね。都道府県名を言うとき、唯一旧国名で呼ばれるのが不思議でないことからして何か個性的なものを感じませんか。筆者は生まれも育ちも大阪府ですが、累計17年間の信州生活も経験しています。それゆえ、両府県の特徴は熟知しているつもりです。面白いことに、長野の県民性は大阪のそれとは対極的なのです。トーキング面に弱点がある一方、まじめにこつこつと遂行する堅実タイプが多いのです。サラリーマンで言えば、外勤型よりも内勤型、あるいは、営業職よりも技術・開発職に向いていると感じがします。

1-c

一方、理屈っぽくて、きまじめという県民性の裏返しとして、ユーモア精神に欠けるところがあるのも事実です。いつだったか、某缶コーヒーメーカのテレビCMで「夏だからってどこかに行こうっていうのやめませんか」というのがあったのを覚えておられるでしょうか。このCMシリーズで矢沢永吉氏が吐くどこかユーモア味あるセリフに筆者はいつも微笑していたのですが、突然、それがテレビ画面から消えてしまいました。「そんなことを言われたら、客が来なくなる」と、旅館組合からクレームが出たためでした。そのクレーム元というのが実は長野県だったのです。まじめに取ってしまって、ユーモアとみなさなかったゆえの結末だったのです。旅行計画していた人が、このCMを見て旅行を中止するなんて、とても思えないのですが。

私自身にも、苦い体験をさせられたことがあります。長野滞在中、何度か結婚披露宴の主賓に呼ばれたことがあります。スピーチのどこかで笑いを取らなければ、関西人の名折れだと思って、その都度笑いを取ろうとするのですが、場内はシーンとしたままで、しらけてしまった経験が何度かあります。主賓の挨拶は、校長先生の訓示を聞くがごとく、まじめにきちっと耳を傾けるべきというような感じでした(笑)。

ユーモア面では歯がゆさを感じることもありますが、それでも、信州の人たちの多くは、誠実であり、勤勉であり、善良であります。それが、長年の信州生活で感じた筆者の感想でした。

2009年6月記

  1. ウォルター・グラットザー著”ヘウレーカ!ひらめきの瞬間” より。 []
  2. “ボクは算数しか出来なかった”小平邦彦著 岩波現代文庫 2002 []
  3. “藤原てい”には、敗戦時、3人の幼子を連れて満州から帰国した際の凄絶な体験談を記したエッセイ“流れる星は生きている”が大ベストセラーになったことがあります(昭和24年)。作家新田次郎誕生のきっかけを作ったのもこの作品という逸話もあります。 []

Advertisement

コメントを残す

ページ上部へ