FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第11話 無口になった弥太郎 – 外伝

本エッセイの読者は、ほとんどが理系分野の方々だと思いますので、日本史には興味がないという方もおられると想像します。しかし、日本にもこんな悪い奴がいたという歴史を是非知っていただきたい思いで、姉妹エッセイ“理系こぼれ話”の第14話で紹介しました内田弥太郎伝の外伝として悪人・鳥居耀蔵のことを紹介してみます。

 

11-a

鳥居耀蔵は、陰険で狡猾で、でっち上げの名人ということで、ほんとうに嫌な奴です。スパイもよく使って、秘密警察の長官のような存在でした。日本史上、稀に見る悪人で、悪人列伝中、間違いなく一二位を争う人物でしょう。その性格に加えて、思想的には保守的で、特に蘭学を敵視していました。それもそのはず、彼の出自は、江戸時代の官学である儒学(朱子学)の本家本元である林家でした。父親林述斎の側室から生まれた二男ゆえ、旗本の鳥居家に養子に入った経緯があります。父親の方も、林家に外から入った人で、皮肉にも親であるこの人は、林家中興の祖と呼ばれ、人物はなかなかできた人のようでした。

天保時代は、歴史的事件が多々あった時代で、そのほとんどに鳥居耀蔵が絡んでいます。大塩平八郎の乱(天保8年)での罪状内容の捏造に始まり、蛮社の獄での摘発(天保10年)、名奉行とも言われ、人望も厚かった矢部定謙への陰謀(天保12年)、長崎の有名な兵学者高島秋帆の逮捕(天保13年)がそうです。すべて、鳥居耀蔵のでっち上げ事件の様相を呈しています。もし、耀蔵の出世が10年早ければ(それでも彼の30代です)、あの史上有名なシーボルト事件(文政11年)も間違いなく彼の手にかかった事件となっていたことでしょう(こちらは、幕府隠密でもあった間宮林蔵が絡んでいます)。

今の時代で言えば、赤信号を一度も渡ったことがないと言う人はいないでしょう。自分の毛嫌いする人物をターゲットに置くと、スパイを使って、その人間の行動を探らせ、例えて言えば、赤信号を渡ったほどの微罪を見つけては、それら微罪を重ねていき、おおげさに脚色し、罪状内容を捏造化していくというのが、40代の鳥居耀蔵の手腕でした。こういう性格の人間に権力を持たすと、ほんとうに怖いといういい例ですね。

微罪を大げさにした証拠に、裁きの結果、死罪になったという人はいません。蛮社の獄での有名人3人の最期も自害でした。早々と亡くなった小関三英も病弱で気が弱かったせいか、華山、長英が逮捕されたことを知り、自分にもお縄が来ると思い、逮捕前に自ら死を選んだものです。

鳥居耀蔵が、これら一連の断罪を出来たというのも、彼が時の筆頭老中水野忠邦の覚えめでたく、目付、江戸町奉行(後には勘定奉行も兼務)へと出世街道を登っていたからでした。水野忠邦という人は、天保の改革の主導者であり、凡庸な殿様ではなかったのですが、どうして鳥居耀蔵などを重用したのか、全く不可解な人事です。天保の改革は、失敗の連続であったのですが、水野の一番の失敗は、鳥居耀蔵を懐刀としたことと言えるのではないでしょうか。実際、水野の地位が危なくなった頃、自らの保身を図った鳥居耀蔵は水野を裏切っているのです。

最後に、鳥居耀蔵の浦島太郎物語を紹介しておきます。天保の妖怪も、その名の示すとおり得意の絶頂期は天保時代の間だけでした。上知令の失敗で水野忠邦が老中を罷免され、やがて天保時代の終り天保15年(1844)には、耀蔵も町奉行を解任されてしまいます。それまでの罪業を指弾され、結局は、四国丸亀藩にお預けとなり、幽閉されることになりました。時に、弘化2年(1845)、耀蔵50歳を迎えていました。

以後、歴史の舞台から鳥居耀蔵の名は全く消え去り、彼の名は全く忘れ去られることになるのです。激動の幕末時代を迎えて、幕閣が幾度と変遷しても、遠く四国に追いやられた鳥居耀蔵のことなど全く無視された存在だったのです。新しい時代を迎えるまでの間に、彼が関係した人たちは次々と鬼籍に入っていきます。その主だった人たちの略歴は以下の通りです。

耀蔵の上司

  • 水野忠邦:政治責任を問われ、家屋没収の上、隠居謹慎。
    嘉永4年(1851)没。58歳。

耀蔵が敵視した尚歯会のメンバー

  • 渡辺崋山:田原に蟄居中に自刃。天保12年(1841)没。49歳。
  • 高野長英:6年間の逃亡生活の末、捕吏に追われて自刃。
    嘉永3年(1850)没。47歳。
  • 小関三英:蛮社の獄に際会して自刃。天保10年(1839)没。52歳。
  • 江川太郎左衛門(英竜):品川の台場建設。安政2年(1855)没。55歳。
  • 川路聖謨:幕府の要職歴任。江戸城開城の日、ピストル自殺。
    慶應4年(1868)没。67歳。

耀蔵が陥れた人物

  • 矢部定謙:桑名藩お預けとなるが、抗議の断食で憤死。
    天保13年(1842)没。 54歳
  • 高島秋帆:ペリー来航後、赦免される。慶應2年(1866)没。69歳。

耀蔵のライバル

  • 遠山金四郎(景元):耀蔵と対立後、大目付に転任するも、耀蔵失脚後、
    町奉行に復帰。安政2年(1855)没。63歳

 

ところで、鳥居耀蔵はどうなったかといえば、驚くなかれ、なんとしつこく生きていたのです。明治元年(1868)に釈放されるまで、なんと23年間もの長きに渡った幽閉の身が続いていたのでした。自由の身となったとき、耀蔵は73歳という高齢でした。江戸に戻ってみると、上で見たように、彼の知る人たちは既になく、まるで竜宮城から戻った浦島太郎のようでした。耀蔵はそれからも5年ほど生き、明治6年(1873)に亡くなっています。

筆者が小学生の頃、黒澤明監督の映画で、“悪い奴ほどよく眠る”というのが評判になったことがあります。その当時、そのタイトル名が一人歩きして、巷の流行語となりました。これをまねて、“悪い奴ほどよく生きる”という言葉がぴったしの鳥居耀蔵の人生だったでしょうか。

2011年8月記

Advertisement

コメントを残す

ページ上部へ