第12話 こちらは弥九郎
前話同様“理系こぼれ話”第14話に登場してもらった内田五観こと内田弥太郎(1805-1882)とは少し先輩に当たるのですが、ほとんど同時代を生きた人物に斎藤弥九郎(1798-1871)という人物がいました。この二人には、接触もありました。斎藤弥九郎といえば、剣豪小説の類を好きな方にはすぐ分かるでしょうが、いうまでもなく幕末の有名な剣客の一人です。
幕末の江戸には、当時有名な三道場がありました。北辰一刀流・千葉周作の玄武館、鏡心明知流・桃井春蔵の士学館、そして神道無念流の本話の主人公斎藤弥九郎の練兵館の三道場です。
斎藤弥九郎は、剣豪小説に出てくるような剣の道一筋の剣客でもなければ、まして求道者でもなく、少し毛色の変わった剣客でした。心身の鍛錬という意味では、随分厳しい人であったようですが、その生涯を垣間見ますと、幕末、剣客と呼ばれた人が多くいた中で、間違いなく異色の人生を歩んでいます。
弥九郎は今の富山県氷見市で寛政10年(1798)に百姓の長男として生まれています。弱年時から江戸へ出て、岡田十松という人が開く道場の内弟子になったことが、彼のその後の人生を決定づけたことになります。それには、弥九郎の人生を語るに外すことの出来ない二人の人物が大いに関係しています。
まずは岡田道場での弟子仲間の一人です。それは、後に伊豆韮山の代官となり、反射炉建設や江戸湾の台場設計で有名となる江川太郎左衛門英龍(1801-1855)でした。この人こそ、弥九郎の前半生を決めてしまった人でした。英龍の方が弥九郎より少し年下でしたが、この二人どういうわけか息が合い、英龍の死まで昵懇の間柄でした。英龍が出世して高身分の幕臣になると、弥九郎は家人に迎えられ、英龍の懐刀のような存在になります。
幕末の江川英龍の役どころといえば、本業が伊豆その他の代官職を務めていたにもかかわらず、開明派として名を知られていましたから、幕府上層部からは防衛・科学技術面で顧問的存在にみられていました。現代風にいえば、なにしろ旧科学技術庁長官と工兵部門長官を兼務するようなミッションを受けているようなものですから、当時の幕府、諸藩の上層部各人との折衝役が重要な役目でした。剣の道とは似ても似つかないこの仕事に、弥九郎が活躍しているのです。冒頭でいった内田弥太郎とは、この江川英龍の用務を手伝っている時代に知り合ったものでした。
また、この英龍と行動を同じくしている時代に(弥九郎は、既に彼の道場、練兵館を開設していました)、剣の達人であるにもかかわらず西洋銃および砲術にも手を出しているのです。この事に関連して、彼の人生を眺めて言えるのは、一貫して先が見えた人生であり、いい意味で世渡りの上手だった剣客だったといえるようです。
さて、話を少し戻して、弥九郎の岡田道場時代のことです。実は道場主の岡田十松が急死することがあり、岡田道場から枝分かれしたような存在で、弥九郎は練兵館という彼が主催する道場を開設します。その後、この道場は大いにはやることになり、門弟数三千名ともいわれましたが、それには弥九郎の経営手腕に負うところが大きいのです。今で言えば、弥九郎は、全国展開の学習塾の大経営者とも言えるのです。江戸の道場だけでなく、全国の諸藩に神道無念流を展開していくのです。水戸藩しかり、越前大野藩しかり、三河田原藩しかり、肥前大村藩しかり、そして長州藩と。
長州藩からは、嘉永6年(1853)にあの桂小五郎が練兵館に入門しています。ペリー来航のあった年でした。小五郎は後に練兵館の塾頭を務めますが、この桂小五郎との師弟関係が、後々弥九郎の後半生に大いに関わってくるのです。それはともかく、練兵館には、後年歴史に名を残す長州藩出身の人材が何人も入門しています。
動乱の幕末時代も過ぎて、明治の御世になった2年、72歳の老剣客は意外にも江戸から遠く離れた大坂の地にありました。おそらく恩義に厚かった桂小五郎こと木戸孝允の周旋だろうと思いますが、当時建設中の造幣寮の役員を務めていたのです。
実はこの時の弥九郎が持つエピソードこそ、筆者が好きな歴史エピソードの一つなのです。ここは小説風に記述した方が、感動が伝わると思いますので、少々脚色が入るのをお許し願って、最後に紹介しておきます。
明治2年、大坂の淀川べりに建設中だった造幣寮が火事にあった。この時、勇猛果敢にも猛火の中に飛び込んで、重要書類を持ち出した一人の老剣士がいた。その人こそ、その昔江戸の練兵館でその名を知られた斎藤弥九郎であった、と知った市民は、「さすがはあの斎藤弥九郎」と称賛の声をあげたという。
2013年2月記