第10話 福島の人々
日本の災害史上、特筆すべき昨年(2011年)の東日本大震災で、福島県の人たちの中から故郷を離れていく人が少なからずおられると聞きます。もちろん、原発事故による放射能汚染を避けるためです。故郷を捨てざるを得ない福島県の人たちの無念さを思うにつけ、どうして日本の歴史は福島の人たちにこうも過酷な運命を背負わせるか、と慨嘆せざるを得ません。
福島県には、今から140年ほど前の明治3年にも、他所へ移住するという歴史がありました。言わずと知れた戊辰の役における会津鶴ヶ城陥落後における中央新政府による斗南への移住命令です(もっとも、猪苗代湖畔への移住という選択肢もあったのですが)。
斗南というのは、今の青森県下北半島にあるむつ市から半島付け根にある野辺地町周辺を指し、明治4年の廃藩置県までの短い時期、斗南藩と称していました。
当時の斗南地方は極寒と荒蕪の地で、もちろん稲作などできるわけがなく、この地へ来た会津の人々はたいへん悲惨な生活を強いられました。会津若松を出た当初、藩の再興ができると、北の未知の土地に希望の念を燃やしたのですが、実際来てみると、現実の厳しさを思い知らされ、おまけに廃藩置県で藩が無くなり、藩主が東京に行ってしまうという、散々の生活だったのです。
斗南藩での統括者を務めたのが、姉妹エッセイ“理系夜話”の第15話、27話で登場してもらった山川健次郎の兄、山川浩(弘化2年生1845-1898)でした。もともと、山川家は旧会津藩では、家老の家柄だったので、当然の成り行きだったのでしょう。弟健次郎(嘉永7年生1854-1931)の方は、家柄と若輩の年齢からくる運の良さもあって斗南での体験をしなくて済み、苦労しながらも学問の道を進むことができました。後年東大、京大の総長を努めるまで出世できましたが、兄浩の方は、貧困なる斗南藩での悪戦苦闘を経てやがて陸軍省に出仕することになります。明治10年の、彼にとっては戊辰戦争の雪辱戦となった西南の役では活躍しています。この時、作った歌が、彼の心情を如実に表しています。
薩摩人みよや東(あずま)の丈夫(ますらお)がさげはく太刀の
ときかにぶきか
山川浩は陸軍を少将で退役しています。薩長から一方的に朝敵とされた会津出にもかかわらず兄弟とも男爵を授けられています。
明治期の薩長閥外の兄弟物語では、“坂の上の雲”で一躍有名になった、松山の好古、真之の秋山兄弟がいますが、会津にも山川兄弟がいたのです。この兄弟には、華を添えるエピソードもあります。彼らの妹に、山川捨松(安政7年生1860-1919)という女子がいました。有名な明治4年の岩倉遣外使節団に同行して、アメリカへ留学に赴いた津田梅子初め5人の少女がいましたが、そのメンバーの一人が山川捨松(当時11歳)でした。捨松という変わった名も、この時の渡米に心配した彼女の母親が、「捨てたつもりで、無事帰るのを待つ(松)」という意味で、名前を“捨松”に変えたと言われています。
10年ほどのアメリカに滞在中、たまたまエール大学に留学していた兄健次郎が、日本語を忘れないようにと捨松に日本語を教えていたというほほえましいエピソードがあります。帰国後の捨松には、ドラマが待っていました。なんと山川家にとっては、恨み骨髄の相手である旧薩摩藩士で明治政府の元勲の一人である大山巌の後妻におさまってしまったのです。この時、不幸な結婚生活で出戻っていた先妻の娘がいたため、図らずも継母となってしまったのです。この当時、巷では、薄幸のヒロインをいじめる継母を描いた小説がベストセラーとなっており、状況が似ていることから、実は山川捨松いや大山捨松をモデルとしている、とまことしやかにいわれたそうです。この小説というのが、徳富蘆花の“不如帰”です。
明治維新前後に非業な運命にあった会津藩には、上の山川兄弟以外にも、明治期の日本史の絵巻に彩りを添えた別の兄弟物語がありました(もちろん、薩長閥に独占された表舞台の政治史ではありませんが)。
まずは、柴四郎、柴五郎の柴兄弟がそうです。この柴家の悲劇こそ、戊辰の役に受けた会津藩の受難を象徴しているのではないでしょうか。官軍がいよいよ会津若松に迫った時、柴家にいた祖母、母、姉、妹全員が城に立てこもるのを拒否して、自刃して果てたのです。
戦闘時期、兄の柴四朗(嘉永5年生、1852-1922)は、山川健次郎同様、有名な白虎隊とは微妙な立場にあり、あの悲劇に遭わなかった運命にありました。山川健次郎の場合、一旦は白虎隊に入隊していたのですが、規定年齢には1歳の年齢不足ということで外されたのですが、柴四朗の方は、入隊はしていたものの元来病弱な質で、鶴ヶ城の攻防戦のとき、熱病で城内に臥せっていて難を逃れた運命にありました。柴四朗は、後年、米国に留学して経済学を学び、その帰国後東海散士というペンネームで“佳人の奇遇”という小説を書いております。これが、日本で最初の政治小説だということです。当時の青年には大きな影響を与えたそうです。後半生は国会議員にもなり政党幹部を務めたりした人生でした。
弟の柴五郎(安政6年生、1859-1945)こそ、悲惨な斗南での生き証人であり、会津藩の上級武士の家に生まれたにもかかわらず、藩の没落期に少年期に迎えたため乞食同然の生活を余儀なくされたのです。東京へ出る前の斗南時代、犬の屍肉を拾ってきて食したという話が、彼の遺書的記録である“ある明治人の記録(石光真人編著、中公新書)”に出ています。
柴五郎は明治6年の陸軍幼年学校入学から生涯を通しての軍人で、英米仏語に中国語をこなす語学の天才でありました。軍内部では中国通で彼の右に出る者はいなかったといいます。その彼の名を一躍有名にしたのは、北京の公使館の駐在武官時代に起きた義和団の乱の時でありました。明治33年(1900)、各国の公使館が義和団に取り囲まれた際、籠城での見事な統率者振りは各国から賞賛の声があがったといいます。
読者の中には、昔“北京の五十五日”というアメリカ映画があったことを覚えている方がおられるでしょうか。あの映画で、故伊丹十三演じる日本人武官が登場していましたが、伊丹が演じた日本人こそ柴五郎だったのです。大正8年(1919)、会津出身では初めて陸軍大将に就いています。時に61歳の時であり、いかにも遅い感が拭えません。やはり会津を無理やり朝敵に仕立て上げた薩長閥のいじわる人事であった疑いはぬぐえません。昭和20年(1945)まで生きた長寿の人でした。
最後の一組は、山本兄弟です。といっても、こちらは、兄と妹の物語です。兄の山本覚馬(文政11年生1828-1892)の人生は、藩主松平容保が京都守護職に任じられて上洛したときに随行したことで決まりました。その死まで京都での生活でした。あの鳥羽・伏見の戦の際、薩摩藩に幽閉されるも、会津が朝敵にされてしまった事情と詫び状を薩摩藩主に捧げたそうです。これが“管見”といわれている書状で、その中には、今後の日本の行く末を、政治、経済、教育、産業にわたって滔々と説いた内容があったものですから、当時のリーダーたちの目にとまることになります。“管見”には福沢諭吉までが啓蒙されたといいます。
そんなことで、その時期に不幸に両目を失明しつつもその知性を期待されて、京都府第二代知事の槇村正直のブレーンに招かれます。ついでに言いますと、この時の槇村知事のもう一人のブレーンだったのが、姉妹エッセイ“理系こぼれ話”第5話に登場している明石博高であります。
山本覚馬はその後、クリスチャンとなり、新島襄とも仲間であり、同志社の創立者の一人となっていきます。そんな縁で、彼の妹山本八重こそが新島夫人、新島八重となる人でした。
山本八重(弘化2年生1845-1932)は、兄とは違って、会津攻防戦の折は当然会津におり、籠城戦では、洋式銃を持って奮戦するという猛女ぶりを発揮しています。会津没落後、京都にいる兄を頼って上洛し、盲目となった兄覚馬の世話をよくしたといいます。ところで、来年(2013年)のNHK大河ドラマは、この山本八重が主人公というではないですか。八重の生涯をもっと知りたい方は来年の放送を御覧ください。
2012年8月記