FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第14話 無口になった弥太郎

明治10年(1877)、東京大学が創立された同じ年、“東京数学会社”という数学関係者の組織団体ができています。会社と言っても今でいう学会のことで、実際、現在の日本数学学会の前身です。日本の近代文明黎明期の時代ですから、当初は数学、物理方面の人たちの入り混じった組織でした。後には“東京数学物理学会”と名称変更しており、さらには、日本の科学分野の発展により数学と物理それぞれに分かれた道を歩んで今日に至っています。

その東京数学会社創立当初のメンバーには、時代背景もあって当然ながら和算数学者が多くいました。しかし、時代が進むとともに、一人欠け、二人欠けが続き、和算数学者のほとんどがいなくなるのに数年を要さなかったといいます。その中で、亡くなる明治15年まで参加メンバーに名を連ねていたのが、老数学者内田五観(いつみ:1805-1882)でした。最後の大物和算学者の一人と言っていい人です。

なにしろ、その当時の日本の数学界といえば、日本最初の数学の大学教授となった菊池大麓が、留学先の英国から西洋数学を持ち帰ったのが東京数学会社誕生の年の明治10年というのですから、維新後10年間ほどの間、内田五観の存在感が大きかったと言えるのではないでしょうか。明治12年に創立された東京学士会院(今の日本学士院の前身)の創立メンバー14人の一人にも選ばれています。

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明治6年に実施された従来の太陰太陽暦から太陽暦への改暦プロジェクトの責任者が内田五観だったそうです。また、新政府が度量衡の統一を図った際、尺度を内田宅にあった古いものさしを基準にしたそうです。このとき、既に知られていた1メートルを3.3尺に決定したエピソードもあります。

しかし、東京数学会社といい、東京学士会院といい、そのどちらでも内田五観の発言はほとんど無かったといいます。性格的に無口な人だったのかといえば、そんなことはなく、江戸期にはむしろ饒舌だったといいます。明治期になって極端に寡黙になってしまったようです。時代の流れに、もはや和算の出る幕はないと達観したのでしょうか。「老兵は語らず、ただ消え去るのみ」の心境だったのでしょうか。ここらが、日本における近代数学の黎明期を書いた小倉金之助の著“近代日本の数学”には、内田の名がほとんど出てこない理由なのでしょうか。

ここまで、読んでこられた読者は、おそらく一人の老和算学者の地味な人生のイメージを内田五観に重ねられることでしょう。ところが時代を遡れば、全く意外な彼の前半生を知ることになるのです。ここで、時計の針を逆に回して、江戸時代に戻ります。

下級武士の幕臣であった内田家の養子に入った五観は、そのころ通称の弥太郎で呼ばれており、江戸時代ではもっぱら内田弥太郎でありました。弱年の頃より、和算塾に通い始め、その才能を周りが認めていたようです。18歳にして、はや関流の本統を受け継いでいます。ただ、彼は保守的なだけの和算家ではなく、かなり広範囲の知識欲を持っていた人のようで、自分の塾の名を“瑪得瑪第加(マセマティカ)塾”と名付けているぐらいです。知識欲旺盛から、蘭学にも興味を持ち、あの高野長英へ弟子入りしているのです。長英に関係したことが、後に弥太郎の人生に彩りを添えることになってしまうとは、当の本人にもその時は想像もできなかったことでしょう。

弥太郎が長英の門下生になった当時の江戸では、蘭学者あるいは、洋学に興味を持つ人たちの間で交流会が度々開かれており、この会を“尚歯会”と呼んでおりました。尚歯の歯とは、年齢のことを意味するそうで、要は尚歯会とは敬老会のことです。メンバーの中心が、画家としても有名な田原藩家老渡辺崋山であり、後に蛮社の獄で自害することになる高野長英、小関三英ほか、知識欲旺盛な幕臣たちも結構、参加メンバーに連なっていました。内田弥太郎もメンバーの一人でした。天保の大飢饉の際、尚歯会の作品として、“救荒二物考”という書き物が執筆されたようです。これは、飢饉対策として、早生蕎麦と馬鈴薯の栽培を勧める内容の蘭書を長英が口述し、それを聞いた弥太郎が文章化し、挿絵を華山が担当したというものでした。今も残っていれば、ちょっとした重要文化財ものではないでしょうか。

ところで、幕末の騒乱物語は、もちろん嘉永6年(1853)のペリー来航に始まるのですが、その前夜ともいうべき天保時代(実際には短かった弘化時代が間にありますが)にも、非常に面白い歴史絵巻がありました。その時代の主人公の一人が、“天保の妖怪”と呼ばれた悪名高い鳥居耀蔵であります。テレビの時代劇でも、桜吹雪の刺青した町奉行として有名な遠山の金さん(金四郎景元)の敵役として、しばしば登場していますね。

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鳥居耀蔵の歴史の表舞台へのデビューは意外と遅く、40歳を過ぎて目付に抜擢されたころからです。天保8年(1837)に起こったモリソン号事件など、外国船の渡来に不安を感じた、時の老中水野忠邦は江戸湾防備体制を敷くため、どういう訳か目付役である鳥居耀蔵に測量も兼ねた江戸湾の見分を命じたことがあります。さすがに不安に感じたのか、もう一人として、やはり尚歯会メンバーでもあった江川太郎左衛門にも補佐役を命じました。結果として、鳥居、江川は同一行動を取るのではなく、別働隊として動きました。江川は、この役目で実際に動いてもらう人間を求めて、渡辺崋山に相談したところ、その華山も自分自身は画家なので、これをそのまま高野長英に相談することになりました。ここで、長英は門下生の内田弥太郎に白羽の矢を当てることになったのです。随分と回りまわってきたものです。この場面での登場が、内田弥太郎すなわち内田五観の歴史の表舞台に登場した最初の出来事でした。

以前、拙著エッセイのどこかで書いたことがあると記憶しますが、筆者にとって読書の醍醐味とは、ある人物が意外な所で登場する場面に出会ったときだと話しました。天保時代を背景にした歴史物を読むと、たいていの本で上の江戸湾測量プロジェクトのことは出てきます。若い頃より、何回かその辺の歴史ストーリーを読んできて、その度に内田弥太郎の名は見ているはずなのに、その名をすぐ忘れてしまい、その人物が数学者内田五観であるとは、全く思いも至りませんでした。これを知ったとき、昔読んだ本を再読してみると、たしかに内田弥太郎の名があるではないですか。弥太郎に随分と失礼なことをしたものです。

閑話休題。容易に予想できたことですが、鳥居、江川両者から提出された江戸湾測量プロジェクトの2種の報告書の内容は、鳥居が恥をかくという結果のものでした。この時の恨みが、後に鳥居耀蔵が引き起こす蛮社の獄の遠因だったといわれています。

蛮社の獄の騒動では、内田弥太郎も登場します。永牢を言い渡された師匠の長英は、獄舎を放火脱獄した後、お尋ね者として各地を転々とする物語は有名ですが、大胆にも江戸の町にも潜伏した時期があります。その際、弥太郎の家に長英の家族ごと居候していたというのです。最後の捕縛寸前、自害した家というのも、弥太郎の甥の家だといいます。

蛮社の獄で鳥居耀蔵の牙にかかったのは、尚歯会メンバーの人たちですが、全員という訳ではありません。メンバーの中には有力な幕臣もいたので、さすがの鳥居も遠慮したところがあったみたいです。結局は自害して果てた渡辺崋山、高野長英、小関三英はともに陪臣でありました。

ここで、不思議な事実があります。先に、長英が果てた所が、弥太郎の甥の家だと言いましたが、弥太郎にはさらに、長英の娘を養女にしていたという、両者には深い関係がありました。それなのに、弥太郎の身には、全くお咎めなしでした。江戸時代の連座制を考えると、不思議な事実です。弥太郎の身分は、伊賀者同心ともいわれています。もしそうなら、忍者ハットリくんの一族の末裔となりますが、その地位は極めて低いものです。有力者を陥れることに熱心な鳥居耀蔵にしてみたら、相手にするほどでもないと判断したのでしょうか。

もっとも、長英の長い逃亡生活の末の最期が、嘉永3年(1850)のことですから、その時、既に鳥居耀蔵は失脚後のことでした。

さあ、読者のみなさんはどうでしょうか。寡黙な明治期の老数学者の姿と、派手な環境で若い人生を送った江戸期の和算学者を同一視できたでしょうか。

2011年7月記

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