FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第49話 回転話あれこれ

数年前のことですが、京都市内のある古書店の棚で“回転群とその表現(岩波書店1957年)”という古い本を見つけました。その当時、回転の数学に関心を持っていた時期でもあり、その本の存在は知っていましたが、なにしろ初版が半世紀前という絶版本でありますから中身までは知りませんでした。ペラペラと頁を繰ってみると、そのタイトルの割には文章が砕けた調子で書かれています。ちょっと面白そうだと思って買って帰りました。

この本は、高名な物理学者であった山内恭彦(1902-1986)執筆の古典的名著といわれている本です。山内恭彦は本エッセイ第10話で紹介しました地震学者の坪井忠二とは同年生まれで、坪井同様、東京大学で教鞭をとられていた先生であります。随分と数学に強かった先生のようで、山内の事を回顧した文章に出くわすと、いつもそのことが書かれています。それもそのはず、日本で初めて、量子力学に群論を導入した先生のようです。今も、書店の物理書コーナーに時折、山内著の本が散見されますが、やはり、物理の中の数学といった内容の本です。

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ところで、“回転”抜きでは物理は語られないぐらい重要な回転物理ではありますが、これを単独のテーマにした書籍がほとんど見当たらないというのも不思議ですね。朝永振一郎著の本に“角運動量とスピン(みすず書房)”というのがありますが、この本は全くの量子力学専門の内容です。古典力学の範囲の人も読める本としては“回転群とその表現”は回転(ここで言っているのは3次元回転のこと)の数学知識を高めるには絶好の本であります。

ただ、この本もやはり量子力学の勉強用のものですから、後半以降では群論が入ってきたりして難しくなってきます。もっとも、量子力学こそ重要な回転の物理であり、そのため話題豊富ということになるのでしょうが、オイラー角やちょっとした4元数(クォータニオン)の代数の学習で事足る古典力学の範囲では1冊の本にはならなかったでしょう。

本書は絶版書でもあり、手元に置きたいと思ってもほとんど不可能に近いことですし、量子力学にも深く入っている内容なので、古典力学の範疇で回転数学の教養を高めたいと思っておられる殊勝な読者の方には次の本をお勧めしたい。

理工系数学のキーポイント8

キーポイント 行列と変換群

(梁 成吉 著 / 岩波書店 1996年)

回転の数学は行列、ベクトル、1次変換といった、いわゆる線形代数の数学と密接に絡み合ったものであることを、非常に分かりやすく教えてくれるのが上の本です。群論や量子力学の話も出てきますが、こちらは気にするほどのレベルではありません。難しいテーマを分かりやすく解説できる人は、その道の達観者でないと出来ないことなので、著者の梁成吉とは一体どんな人なのかと思って調べてみましたら、誠に残念なことに既に若くして亡くなられていました。物理のホープの一人のようでした。

さらに余談を続けます。

前2冊の本では、主な読者対象が物理屋さんとなっているので、工学分野の人間には普段聞きなれない専門語が飛び交っています。その中の1つが“スピノール”です。その昔、テンソル数学が創始されたとき、これですべての物理量を説明できる数学が用意できたと、物理界で思われた時期があったらしいです。ところが、量子力学の発展過程で、そうではないことに出くわすことになります。

工学エンジニアが勉強する数学では、ベクトル、テンソルで表現される基本物理量で済みますが、もっと基本なのがスピノールということらしいです。一言で言ってしまえば、2元複素ベクトルということですが、その正体を紹介しろと言われても筆者の範囲外のことであり、関心ある読者は上の本を読んでみてください。ただ、スピノールの姿そのものは意外とやさしい姿です。

もう1つ言えば、群論です。若くして亡くなった天才児ガロアが女性を巡っての決闘前夜に走り書きした数学がその嚆矢だったというあの群論です。その後の群論にはいくつかの種類が見つかり、その中の1つ、リー群に回転の数学が属しているとのことです。回転のことが書かれている数学書、物理書には必ずといっていいほど3次元回転=リー群のことが言及されています。

リー群の概念なしでは現代数学を考えにくいとも言われている、このリー群の名に冠されている悲運の数学者リーのことはあまり知られていないと思いますので、彼のことを紹介して今回の話の終わりとします。

リー(Lie;威1842-1899)はノルウェーの出身で、同国出身でやはり悲運の数学者であった有名なアーベル(Abel;威1802-1829)の死後13年後に生を受けています。後年、アーベルの仕事を完成することにも従事しています。

リーは最初から数学者ではありませんでした。体格もいいことだから、若いころ軍人になることを考えたこともあります。なかなか自分の進路を決められず、幾多の大数学者たちが、その年頃にはいくつかの数学実績を持っている24、25歳のころになってやっと、数学の道に興味を持つことになります。

しかし、数学研究の中心であったフランス、ドイツではなかったノルウェーでの研究は数学界では何の注目も浴びず、この自分の数学が認められていないという精神的苦痛はリーのその後の人生について回ることになります。

数学雑誌にリーのアイデアが掲載された縁の奨学金でドイツへ留学したときから、彼の数学者としての人生がやっと回転し始めます。ベルリンのクンマーの元でしばらく勉強した後、フランスへと移ることになります。この時期のドイツ、フランス時代に彼の終生のライバルであり因縁浅からぬ数学者クライン(Klein;独1849-1925)と出会い、行動をともにすることもありました。

その後、ノルウェーに戻ったリーはクリスチュニア大学に席を得ますが、彼の数学アイデアはなかなか、中央界では認められず悶々と過ごしていました。

1つには、彼の数学を理解する幾何学者がいなかったからです。この状況を憂えたクラインは、彼の弟子であるEngel という数学者をリーのアシスタントに送り込みます。後に、ライプチッヒからゲッチンゲンへ移ったクラインの後釜にリーが座ってから、リーとEngel は彼らの共同研究成果である“変換群の理論”という3巻の大作を出版することになります。

この時期がリーの数学者としての絶頂期であり、また、その後の不幸な後半生の始まりでもありました。クラインとリーという二人の大数学者は数学に対する視点が全く異なっており、数学での活動に同調することがなかったのです。クライン、Engel 両者との確執、ライプチッヒ大学でのヘビーな義務負担、故国ノルウェーへのホームシックなどが重なって、リーは精神に変調をきたしてしまいます。 元々、朗らかでよく笑っていた彼の性格は一変し、怒りっぽくなり、猜疑心の強い性格になってしまったのです。

「私はクラインの弟子ではない」と公然と叫んで、クラインとの関係を壊してしまったのです。そんなことでノルウェーへ帰国するも、その翌年には人生を終了することとなります。

クラインの名著“19世紀の数学”には、リーの名だけは散見しますが、彼の経歴、業績に関する文章がほとんど無いのは二人の確執が原因だったのか、と勝手に勘ぐってしまいます。

2007年9月記

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