FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第48話 幕末の数学者

平成の大合併で今では広島県尾道市になってしまいましたが、以前は因島市に属していた瀬戸内海に浮かぶ生口島という島を読者はご存知でしょうか。蜜柑とレモンだけという鄙びた島ですが、画家の平山郁夫さんの出身地ということで記念館が出来、最近はちょっと知られているようですが。

実は母方の田舎がこの島であり、筆者は幼稚園に上るころから毎夏、この島へ行くため大阪から山陽本線を尾道駅まで乗っていました。たしか、昭和30年代初めのころだと記憶しますが、列車が福山駅を過ぎてもうすぐ尾道の手前、松永(ここは下駄の生産で有名です)という所を通過する折、海岸側の車窓風景に今では見られない光景が飛び込んできました。褌姿の男たちが、野球場の整備で使うトンボのようなもので砂を相撲の土俵のような場所に集めていたセピア色の光景を今も覚えています。

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いわゆる入浜式塩田の風景を直に見ることができたのは、筆者の世代が最後ではないでしょうか。その後、塩田法は急速に竹枝をクリスマスツリーのように積み上げた物に上から海水を垂らす枝条架法に取って代わられた歴史があります(もちろん、現在では枝条架法でもなく、もっと現代的な方法が採用されていると思いますが)。

明治の初め、枝条架法の塩田事業を人生後半のライフワークとした数学者がいました。茨城県水戸市に隣接する笠間市にあった笠間藩の出身で、動乱の幕末時代を技術官僚で出世した小野友五郎(1817-1898)です。

小野は日本で初めて西洋流の微積分学を学んだ人ともいわれています。数学者としては和算学から始めましたが、数学に強いことから幕府の天文方に出仕していたことが彼に幸いしました。幕府の推薦により長崎に開設された海軍伝習生の第1期生となります。微積分は長崎時代、オランダ仕官から学んでいます。この長崎海軍伝習生であったことが、その後の出世街道を歩む小野友五郎の大きな契機ともなっているのです。

誰もが知るあの咸臨丸の航海では、小野は航海長として乗船しています。有能で真面目な性格であったため、咸臨丸の後には、特命全権大使として2度目の渡米をするという旧幕時代には珍しい体験もしています。

幕府瓦解の大詰めであった鳥羽伏見の戦いの折、徳川慶喜が大坂から江戸へ逃げ出した後も、慌てふためく同僚たちを尻目に大坂城にあった莫大な幕府御用金を江戸まで持ち帰るという冷静な行動をとっています。おかげで、後に、江戸へ東征に出ようという官軍がその金を取り損ねて上方の豪商たちに寄付を迫ったというのは有名な話であります。

ところで、旧幕時代の2度の渡米では小野と因縁浅からぬ有名人物がいました。それは福沢諭吉です。小野、福沢の二人は渡米行動が全く同一でした。そして、2度目の渡米時に問題が起こってしまいます。

福沢は咸臨丸で同船した二人の人物と確執を持つことになります。一人は咸臨丸の船長でもあった勝隣太郎、後の勝海舟であり、もう一人が小野友五郎です。勝の方は、福沢が晩年に著した“痩せ我慢の説”で人口に膾炙していますが、小野とのことはあまり知られていないようです。

2度目の旅中、上司である小野に対して、福沢は不遜な態度をとり続けたばかりでなく、大量の洋書購入では公私混同と弾劾されるような行動をとってしまったことがあります。帰国後、小野は福沢を告発し、そのため福沢は何ヶ月かの謹慎処分にあっているのです。

福沢諭吉という人は、封建思想に洗礼化されていた日本国民を近代化に導いた啓蒙思想家ということで子供向けの偉人列伝中でも筆頭格の位置にあると思われますが、彼の人生を詳細に追っていると、事はそう単純ではなさそうです。時代を読む才に長けた商人のようでもあり、とにかく処世術に長けていた。若い頃は勉学のためには日本人離れした厚かましさを存分に発揮しています。ほんとうは、人物、思想ともども評価が難しいのが福沢諭吉です。

話を小野友五郎に戻します。彼が歴史の表舞台に登場していたのは旧幕時代であり、その終了とともに終ってしまいます。元々、政治志向ではなかった人なので、明治の新時代では小官吏としてのリスタートでした。しばらくは、全国に広がりつつある鉄道施設のための測量方として働くことになります。晩年は、先に述べた製塩業に情熱を傾けることになります。

旧時代では数学に強い高級官僚、新時代では数学に強いエンジニアというテクノクラート小野友五郎の人生でした。

2007年8月記

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