FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第59話 侯爵夫人の家庭教師

工学問題に出てくる常微分方程式には2階微分のものは多いですが、意外と1階微分のものは少ないと感じますが、どうでしょうか。それにしても、1階微分方程式にはベルヌイの微分方程式とか、リカッチの微分方程式といったように数学者の名を冠したものがいくつかありますね。その中に、クレイローの微分方程式というのもあったことを読者は覚えておられるでしょうか。

久しぶりに、学生時代に使用していた微分方程式の教科書を開いてみると、クレイローの微分方程式の箇所には赤線でアンダーラインを引いてある、メモをしているはで、我ながら勉強していた当時の証しが残っていました。微分方程式の講義を受けたのは多分、大学2年生か3年生の頃だったと記憶しますが、工学での数学は、なんといっても微分方程式だという気負いで微分方程式論は結構、勉強したことは覚えています。しかし、クレイローの微分方程式のことはすっかり忘れていました。

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「工学系の数学は使って何ぼ」というところがありますので、使わない数学はどしどし忘れてしまいます。ここが、工学部で行われる数学教育の考えさせられるところでもありますね。小中学校での数学のように合理精神を涵養するためといった大義名分も大学の数学では通用しないでしょうし。

さて、今回はここに出てきたクレイロー(Clairaut;仏1713-1765)の話です。この人は、52歳という比較的短い人生の中で、幅広く活躍した一流の数学者でした。後年の彼は天文学者といってもいいぐらいでした。その生涯を眺めてみると、ニュートン力学を検証するために生まれてきたような人生でもありました。同時代を生きた数学者であったオイラーやダランベールほど名が知られていないと思われますが、それが不思議なぐらい活躍しているのです。

クレイローは数学教師であった父親から数学の薫陶を受けています。10歳でロピタルの著になる円錐曲線の幾何学を読み、12歳で4次代数曲線の研究を、16歳で2重曲率の曲線の研究といった具合に神童ぶりを発揮しています。

ニュートン力学とのかかわりの1つは、ある女性への家庭教師を務めたことに始まります。その女性とは、一般にシャトレ侯爵夫人と呼ばれているエミリー・デュ・シャトレです(第41話参照)。18世紀フランスの啓蒙時代に生きた恋多きエミリーはまた、語学が達者で科学知識も旺盛でした。彼女を取り巻くヴォルテールやモーペルテュイの影響を受けてニュートンの著“プリンキピア”の仏語への翻訳を決行するのです。これは歴史上数少ない女性による科学上の快挙の一つでありますが、彼女の後ろにはクレイローがいました。さすがのエミリーも数学の細かい点では助けを要しました。このヘルパー役がクレイローだったのです。実際、この翻訳本にはクレイローの理論も多く追記されているといいます。

エミリーを通じてかどうか分かりませんが、クレイローはモーペルテュイらの科学仲間に入り、これまた有名な探検旅行にも出かけています(1736年)。当時のフランスでは、エミリーの翻訳話でも分かるとおり、いまだニュートン力学が敷衍していたわけではありません。相変わらず、母国出身のデカルトによる渦動論という怪しげな理論が有力だったのです。

既に本エッセイ第42話で紹介しましたが、両理論からくる地球の形状の予測違いに決着をつけるため、2組の探検隊が、一隊が北極圏に、一隊が赤道付近へと派遣されました。このうち、北極組のリーダーがモーペルテュイであり、その隊にクレイローも参画しています。緯度1度分の測地を実施すれば完全球状でない地球の形態が分かろうというものです。結果はいうまでもないですね。クレイローはこの結果を踏まえて、“地球形体論”を著しています。ついでに言いますと、この北極隊には摂氏温度の由来者であるスウェーデンのセリシウスも参加していたというのが興味深いところです。

しかし、ニュートン力学の伝道者のようなクレイローは一時、その力学理論に疑いを持った時期があります。月の軌道を計算するのに逆自乗則を適用したところ、不正確であることを発見しました。むしろ、1/R4 の項も追加する必要もあることを公にしたので、巷のデカルト渦動論派が一時、優勢になったといいます。ところが、その後の研究で、月の軌道の不正確さは使用した近似計算側に不足する要因があったことが分かり、それを考慮すると正確な結果となりました。逆自乗則は危機を脱したのです。クレイローはいわゆる、三体問題を扱っていたわけであります。

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月の後はハレー彗星の問題に挑戦します。幸運にも彼の天文知識を大いに発揮できた1759年にハレー彗星は回帰することが予測されていました。この回帰時期の予測値を当時の常識から照らして、驚くべき正確さで言い当てたものですから、クレイローは注目の人となります。だが、この彗星の計算時期から、長年親交を築いていたダランベールとの論争が始まり険悪な仲となることをおまけとして紹介しておきます。

地球から月へ、さらにハレー彗星へと、扱う宇宙空間を広げていったクレイローは天文学者の様相を示した18世紀フランスの代表的数学者の一人でありました。

最後に驚くべき余談を1つ。

クレイローの両親は何と20人の子供をもうけたようです。しかし、成人まで生き残ったのはクレイロー一人だったとのことです。

2008年11月記

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