FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第58話 二面相の物理学者

サイエンス部門の岩波新書の中に、インフェルトという人との共著になっているアインシュタインの“物理学はいかに創られたか”という上下2冊の本があります。

アインシュタインお得意の思考実験を展開して解説する物理の根底思想を歴史的に振り返った好著です。 和訳の初版が昭和11年といいますから、ずいぶんと古い本ですが、有名な本でもあり工学関係の人たちにも過去、随分と読まれてきたことでしょう。数式を一切使用せず、内容は平易に書かれているし、文体も現代文に近いものなので、今の高校物理の副読本としては格好の書物ではないでしょうか。

昔、この本を読んだことがある人でも、その訳者が石原純という特異な人生を送った物理学者であったことまで覚えておられるかどうか。この本が出版された時期は、彼は既に物理学者ではありませんでした。その理由は後で分かります。

石原純(明治14年生。姓の正式読みはイシハラではなくイシワラとのことです)といっても、今ではほとんど忘れられた存在でしょうが、近代日本の理論物理界でのホープ的存在だったのです。石原の時代には既に黎明期の日本物理界を支えた山川健次郎、田中館愛橘、長岡半太郎という大先輩たちがいましたが、なにしろ皆、明治以前の生まれです。西欧に生まれつつあった新しい物理を担う役にはとうが立っていました。ちょっと先輩に寺田寅彦がいましたが、彼はご存知の通り地球物理学の方面に進んだ人です。

石原は仙台に東北帝国大学が創設されるやいなや助教授として赴任しましたが(明治44年)、ここに、実験物理での本多光太郎、理論物理での石原純という日本で初めてのヨーロッパスタイルの物理学者が揃ったといわれています。

石原が興味を持った物理は3段階の様相を呈していました。最初、金属電子論、続いて光量子論だったようですが、この2つは中途半端な終わり方をしています。そして、最後に行き当たったのが相対性理論です。

東北大学赴任の翌年には早速ヨーロッパへ留学しています。最初、有名なドイツの物理学者ゾンマーフェルトの下にいましたが、やはりアインシュタインの所を訪ねています。後年、アインシュタインが来日した際、各地での講演に石原がついてまわり、通訳を務めた縁もここに始まります。もっとも、アインシュタインの来日そのものの実現への影響の1つに石原の存在があったようです。

物理学者としての石原は後世にその名を留めるような特筆すべき功績はなかったようですが、1つ、物理学者としてのするどい嗅覚を示しています。1938年、ドイツでオットー・ハーンとリーゼ・マイトナー両者による原子核分裂の論文が出るや、それを読んだ石原は原子兵器の出現をいちはやく予知したといいます。

さて、ここまでは、石原純が持つ物理学者としての一面を語ったに過ぎません。実は彼にはもう1つの顔があったのであります。

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父親の影響からか、彼は学生時代から短歌に非常に興味を持ち、事実、一人前の歌人だったのです。理系人間でもその名を知る短歌雑誌アララギの立ち上げには斎藤茂吉らと共に参画しているほど、この世界でも有名人だったのです。しかし、この世界にも足を踏み入れていたことが、彼の後半生を不幸なものとしてしまったのです(本人は別に不幸とは思っていなかったかもしれませんが)。

仙台に原阿佐緒という美貌の歌人がいました。明治21年生まれといいますから、石原よりも7歳年下です。この人、美人は不幸な人生を歩むという代表例の一人かもしれません。歌人としての才能はあり、この世界では有名人だったようですが、私生活面では不幸が多かった。

地方の財産家に生まれ、お姫様育ちで経済面の才覚が全くなく、好むと好まざるにかかわらず文芸サロンでの女王的存在でした。性格面でも幼稚性があり、ことに異性関係では恋多き女性で脇が甘く、優柔不断の態度をとり続けたのが彼女の不幸の原因でありました。

阿佐緒本人に直接の責任はないにしても、美貌ゆえか彼女の周りには男たちが寄ってくる。男性にとってよほど魅惑的な女性だったらしく、ともかく男たちが言い寄ってくる。しかも、どういうわけか妻子持ちの男たちなのです。彼女に近づいた男がたちまち彼女の魅惑に迷わされるところをみると、遠く中国の春秋時代の傾城の美女、夏姫のことが連想されますね。

しかし、彼女にできた最初の子供を世間から隠すようにして育てざるを得なかったという、最初の男性との出会いからして不幸の始まりでした。不幸な結婚生活が続いていた大正6年の末、彼女は病を得て東北帝国大学付属病院に入院しています。このとき、同じ歌仲間だった石原純が彼女を見舞ったのが、その後の二人に襲う不幸な恋愛事件の幕開けでありました。

石原純も原阿佐緒の虜になってしまったのです。ついには、石原が東北大学を辞職するまでにもなる恋愛なので、著名な物理学者と美貌の歌人との恋愛という世紀のスキャンダラス事件として当時の新聞紙上で派手に採り上げられました。時に、石原は40歳の分別盛りの男であり、家では5人の子供もいたのです。しかも、男は帝国大学の教授ということで、マスコミは原阿佐緒を毒婦的扱いにしたようです。

帝国大学の教授といえば、今の時代では考えられないほど地位の高い昔のことですが、スキャンダラスな事件を好む世間は今も昔も変わりません。非難されるのは一方的に原阿佐緒であったようです。しかし、現実は違っていました。阿佐緒側にも問題がないわけではありませんが、石原側にこそ大いに問題がありました。付き合いを申し込まれた当初、困惑していた阿佐緒を石原は執拗に追いかけ回し、ついに阿佐緒が屈したというのが真相らしいのです。石原純という人は明快な文章を書く人物からは想像できませんが、かなり粘着質の性質だったようです。今でいうストーカーまがいのことをしているのです。

帝国大学教授と美貌歌人の恋の逃避行も結局は破局を迎えます。東北大学を辞した後の石原は、岩波書店に拾ってもらい科学雑誌の編集長(冒頭の訳本出版もこの当時の1つ)を務めたりしていますが、私生活面では決して褒められるものではありませんでした。戦後まもなくのとき、GHQ のジープに跳ねられる不幸な事故に遭い、それが誘引となって事故の翌年には亡くなっています。

一方の原阿佐緒の方は、スキャンダラス事件から世間で有名になってしまったその名前を明らかに利用された勧誘で女優業、水商売のマダムと変遷していきますが、いずれも成功はみませんでした。

考えてみれば彼女は気の毒な女性です。大正デモクラシーとはいわれた時代ですが、彼女には自我というものが無く、あくまでも封建的時代の古い女性であったがゆえに男の身勝手が黙認された時代にその男たちに翻弄された人生でありました。

2008年11月記

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