FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第42話 アカキヤ博士

プレイボーイでも有名だったノーベル賞物理学者ファインマン(Feynman;米1918-1988)は、個性的な性格でなかなか面白い人物だったので、彼に関するエッセイが日本でも何冊か翻訳されています。それを読んでいると、彼の物理学のキーワードの1つが“最小作用の原理”であったことが理解できます。

改めて言うまでもないでしょうが、最小作用の原理というのは、光が最短コースの経路を通るように、物理現象はその変化に必要な作用の総量が最小になるように起こるという一般原理を言います。早い話が数学的には変分原理ですね。事実、変分法の創始期に貢献したオイラー(Euler;瑞1707-1783)が最小作用の原理の提唱者の一人です。ただし、ここに一人の論争好きで、やや強引な性格の人間が登場してくるから話はややこしくなります。今回の主人公はこの人物、モーペルテュイ(Mauperteis;仏1698-1759)です。

モーペルテュイはオイラーのような数理的才能はありませんでしたが、ヨハン・ベルヌイ(J. Bernoulli;瑞1667-1748)の下で数学を学んでいます。渡英後、ニュートン力学の信奉者となり、デカルトの渦動宇宙論が敷衍していた当時のフランスの中で、デカルト派の人たちと論争を繰り返すこととなります。この論争は決着を求めて地球の形状論争へと意外な方向に展開していきます。

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ニュートン力学が正しければ、地球の形は両極が扁平となった回転楕円体であろうし、デカルト派が正しければ、赤道部が細くなっているというわけです。それを検証するために、フランスの科学アカデミーは北極圏と赤道方面にそれぞれ遠征隊を送り込み、緯度の長さを計測させたのであります。結果は後世の人間の知る通りです。モーペルテュイ自身、北極圏への遠征隊を指揮しており、このことが彼の経歴の中で大きな痕跡の1つとなりました。

フランスで地球形状論争がたけなわだった前後、隣国のプロセインでは世界史上有名なフリードリッヒ2世が王位に就いています。この王様、軍事も好きだったけれど、芸術方面も好きでした。ベルリン科学アカデミーをなんとか世界で一流のレベルにしようと、その総裁に自分の詩作の師と仰ぐヴォルテール(Voltaire;仏1694-1778)を招こうとして断られます。そこで、白羽の矢が立ったのがモーペルテュイでした。いよいよ、最小作用の原理をめぐる茶番劇の舞台がととのってきます。

ベルリン科学アカデミーといえば、既にオイラーがメンバーの一人でした。彼は豊かな数学的才能をもって現実に最小作用の原理を使用した運動論を記述しています。時期的にはこれよりも早く、モーペルテュイもまた、この原理を哲学的に提唱している事実がありました。この二人の先優権がはっきりしない状況で、さらに複雑なことが起こりました。

アカデミーは、モーペルテュイのベルリン着任後、彼と同じくヨハン・ベルヌイの下で数学を学んだ後輩のケーニッヒ(König;独1712-1757)という数学者も招いたのです。ケーニッヒはたいした数学者ではなかったのですが、ベルリンに来てから物議を醸すエッセイを出してしまったのです。なんと、最小作用の原理は以前、ライプニッツ(Leibniz;独1646-1716)が発見したものであり、その証拠の手紙を持参していると発言したのです。これによって、この原理をめぐる熾烈な論争が展開されたのですが、結局はケーニッヒが持つ手紙は偽造であるというアカデミーの結論が出されました。

ところが、この論争の過程で、どういうわけかケーニッヒを高く買っていたヴォルテール(この時期、彼もフリードリッヒ2世のもとに呼ばれていました)が論争に加わったものですから、この騒動は簡単には結末を迎えませんでした。

ヴォルテールとモーペルテュイはともにニュートン力学のフランスへの輸入者であり、それまで親しい間柄であったのに、仲違いしてしまったのにはケーニッヒのこともありますが、その事件の少し前、モーペルテュイが出版した著書にも理由があったようです。

モーペルテュイの著書には「南北両極への旅をすべし」、「ラテン語だけ通用する都市を建設せよ」、「地球の中核まで穴を掘れ」、「病人の体に松脂を塗布して治癒せよ」といったような提言がまじめに語られていました。これらの文書がヴォルテールの旺盛な批判精神に火をつけてしまいました。“アカキヤ博士の毒舌”という風刺文を書いてモーペルテュイを攻撃したのです。だが、この風刺文は騒動の拡大を恐れたフリードリッヒ2世の命で焼かれてしまいました。

これが契機でヴォルテールは王のもとを去り、一旦は王に救われたモーペルテュイも母国フランスでは批判者が多くなり、失意のうちにベルリン科学アカデミーを去ることになります。病身のモーペルテュイは人生の最期を友人ヨハン・ベルヌイ2世の家で送ったようです。

“最小作用の原理”の物語は何だかよく分からないところがありますが、科学史では一応、モーペルテュイが最初の提唱者ということに落ち着いているようであります。

2006年10月記

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