FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第45話 専門バカ

昨年(2006)の終り近く、何十億円という移籍金でメジャーリーグへ移ったプロ野球選手たちの話題で世上騒然であったことは記憶に新しいですね。メジャーなものに人が憧れるのはスポーツの世界だけでなく、学問の世界でも同じです。物理学もその例外ではないでしょう。現代物理学の黎明期、時はあたかも19世紀から20世紀への過渡期に、日本の物理学界も原子物理学が主流になりつつありました。

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しかし、この時期、敢えて亜流の物理に一生を捧げたのが寺田寅彦でした。一度は、結晶のX 線解析という現代物理につながる実験で功績をあげておきながらも、どういうわけかその後は日常身辺の物理に興味をもち、粗末な実験道具で自然相手の面白い実験を行っていました。時の理学界の大御所、長岡半太郎からは“掘っ立て小屋の物理”とまで言われて揶揄されています。

寺田寅彦といっても、何かの随筆に接したことがあっても、人物そのものについては意外と知られていないのではと想像します。随筆家と物理学者という二足のわらじを履いた人で、「天災は忘れたころにやってくる」という名言を吐いた人だというぐらいしか知らないというのが大方かもしれませんね(実はこの名言、寅彦の膨大な著作集のどこにも出ていないという不思議があるそうです)。さらにいえば、夏目漱石との長い師弟関係が有名なところでしょうか。

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寺田寅彦(1878-1935)は生誕地こそ東京ですが、それは父親の赴任地であっただけで、本当は高知の人でした。今も、高知市には彼の実家を模した家があるはずです。昔、筆者も訪れたことがあるのですが、寅彦が西欧へ留学した際に持っていったという鞄がぽつんと部屋の中に置かれていたことが今も記憶に残っています。

高知から熊本の第5高へ進学したとき、英語教師だった夏目漱石に出会ったことが、文人の寅彦としては幸運であり、物理学者としての寅彦は悲運であったと言えるかもしれません。

過日、古書店で見つけた絶版本の寺田寅彦伝を買ってきて読んでみました。その中にこんな文章がありました。

「寅彦は50年生まれるのが早過ぎたが故に、さまざまの分野を開拓しながらも、その成果が世界水準まで育たなかった。そして掘り下げ方が浅いことも多く、寺田物理学を趣味的と思わせてしまったのであろう。しかし今日生きていれば、地震学、海洋学さらには公害問題においても、そのあり余る才能を発揮できたであろう。フラクタルとかファジー理論とか、寺田寅彦の学風に打ってつけである。」(太田文平著、寺田寅彦より)

これは、寅彦より半世紀ほど後の東大・物理学教室の後輩である有馬朗人の言葉です。短い文章の中に寅彦の物理を言い尽くしています。さすがは文部大臣を務めただけの人であり、うまく表現していますね。

屋上屋を架す文章で恐縮しますが、物理学者、寅彦には2つの不運があったのではと筆者は思います。その1つは、健康面に恵まれなかったこと。若いころに肺の病気で長期休養し、長じては胃を患って、これまた長期療養を余儀なくされています。比較的若い最期(57歳)は骨肉腫が原因でありました。健康問題は彼自身だけでなく、配偶者もそうでありました。寅彦は生涯に3人の奥さんを娶っていますが、先の2人はともに病気で若死にしています。なかなか安定した研究生活がいとめなかったのではと感想を持ちます。

2つ目は、趣味が多すぎたことです。熊本での漱石との邂逅以来、俳句、随筆と文人としての道を歩み、絵画、ヴァイオリンと、とにかく多趣味でありました。功なり名を遂げた科学者、数学者が晩年、教育方面や文筆活動に方向転換することはよくあることです。だが、寺田寅彦は若いころから随筆家・吉村冬彦であったわけです。

若い頃から文人と科学者という二足のわらじを履いた人は、文人としては名声を得る一方で科学者としては今ひとつ物足りなさを感ずることは否めません。有名なところでは森林太郎もそうであります。鴎外としての成功の一方で、医学者としての彼は権威主義の性向もあったせいで何ほどの成果もありません。いや、むしろ脚気騒動では汚点さえ残しています。

元々、文系趣味の性向のあった寺田寅彦は夏目漱石に出会い、漱石門下の多くの文人たちとの交流が深まり、ますます吉村冬彦に研きがかかったことは想像に難くありません。要するに寅彦は専門バカになりきれなかったと言えるのでないでしょうか。

専門バカで思い出すのが、日本が誇る数学者であった小平邦彦が吐いたという名言です。学生運動はなやかし頃、東京大学理学部長を務めていた小平は、学生たちに専門バカだと追い詰められた教授連の中にあって、「専門バカと言うけれど、専門バカでなかったら、ただのバカではないか」とやり返したといいます。

閑話休題。寺田寅彦が亡くなった後、彼の物理に非難の声が上ったといいます。すなわち、あたら若い才能を地球物理学のような非正統な物理に導いてしまったという罪作りを批判したのです。それで東大から原子物理のノーベル賞が出なかったとまで言われています。

それでも、人間・寺田寅彦は多くの弟子や後輩たちに慕われました。その寺田山脈には雪の結晶で有名な氷雪学の中谷宇吉郎をはじめ、本エッセイ第10話でも紹介した地震学の坪井忠二、気象学の藤原咲平、形態学の平田森三とまことに多彩な人材が連なっています。それらの高峰がまた、それぞれの弟子たちに慕われる歴史を刻んでいったのはご存知の通りです。

2007年3月記

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