FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第44話 3人のそれから

ずっと昔、筆者の高校生時代だったと思いますが、“それからの武蔵”という小説が話題となり、テレビでも連続放映されたことがありました。もちろん、“それから”が意味するところは巌流島での決闘以後の宮本武蔵の生涯であります。歴史上、名を残した人物の“それからの人生”を眺めると、なかなか興味深いものがあります。

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前回、明治初期の北海道において、たった一言の発言で日本では超有名になってしまったクラーク博士が出てきましたので、そのクラークからの“それから”を紹介しましょう。

クラーク(Clark;米1826-1886)の人生は野球の投手に例えると、先発完投がほとんどなく、先発しては試合中盤に打ち込まれて降板してしまう連続でありました。万全の試合運びで次の投手にバトンタッチしたのは1試合だけでした。それが彼の札幌時代であります。現役最後の試合では、火だるまの状態でノックアウトされ二度と立ち直れなかった感さえあります。

クラークは明治9年(1876)、明治政府の招きにより北海道・札幌農学校の教頭に着任しました。それまでの彼はアメリカで農科大学の校長を務めていました。元々、彼は鉱山学を専門とし、かのガウスが最晩年を迎えていたドイツのゲッチンゲン大学に留学して博士号を授かっています。ただ、自分の学問の拠り所とした鉱石関係の分野で、晩年の悲惨な人生が待っているとはこのときの彼は知る由もありません。

日本での報酬は、北海道開拓長官であった黒田清隆(後の第2代内閣総理大臣)よりも上であったといいます。クラークの日本での任期は1年間という極めて短期間であった上、休暇、旅程期間も含まれていましたので、札幌での活動は実質8ヶ月という短さでありました。

明治10年(1877)4月、クラークが農学校を去るとき、Boys, be ambitious! という言葉を残したことはあまりに有名ですね。

ここで感心するのは、誰が訳したか知りませんが、よくぞ「大志を抱け」と訳したことです。この時点で、訳者はそれからのクラークを知る由もないことです。帰国後のクラークを予知していたら「野心を抱け」と訳してもおかしくはない後半生でありました。ブラックジョークみたいですが、もし、そんなことにでもなっていたら、日本のほとんどの小学生が知るクラークは存在しなかったに違いありません。

帰国後のクラークは洋上大学の計画に参画してはつまずき、鉱山事業に手を出しては失敗という挫折の連続だったのです。特に鉱山事業はかなり投機的なもので彼の最晩年を汚しました。おかげで多額の借金を抱え失意の晩年を送っているのです。よく言えば雄弁な活動家、悪く言えば野心家でもあったというクラークの生涯でした。

ところで、幕末から明治にかけて日本で名を残した人たちの中には、どういうわけか帰国後にはクラークのように失意のうちに人生を終えている人たちがいます。次はオランダから日本の長崎へ派遣された軍医のポンペです。

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ポンペ(Pompe;蘭1829-1908)は安政4年(1857)、幕府の招きで長崎に着任しています。かのシーボルトが長崎を去って27年後のことでした。日本で初めて近代的医学教育を施したり、これまた初めての西洋式病院をつくって日本医学の近代化に貢献してくれた人であります。帰国後も日本からの留学生の面倒を見てくれたり、榎本武揚がロシア駐在大使に赴任した際も外交顧問の役を日本政府から要請されています。日本人が忘れてはいけない人物の一人でしょう。

ところが、このポンペも後年、牡蠣の養殖事業に手を出して大失敗しているのです。クラーク同様、大借金を抱えた貧困の晩年であったそうです。

余談となりますが、ポンペと言えば可笑しな話を思い出します。元NHK ディレクターの吉田直哉氏が新聞のコラム記事で紹介されていた話です。吉田氏が司馬遼太郎さんから聞いたという話ですが、人間、年をとれば度忘れするというテーマです。

長崎でポンペのことをライフワークのように研究していた年配の郷土史家がいました。あるとき、彼が講演の講師を頼まれたことがあります。ところが、演壇に立った彼、冒頭でポンペの名が出てこない。長年、自分が研究してきた人物名を度忘れしてしまい、なかなか出なくて冷や汗が出てくる。彼にとってはずいぶん長い時間が経過したと感じられた後、やっとのこと思い出して思わず“ポンペ”と吐き出してしまった。音が音だけに爆発音のように聴衆には聞こえたそうです。

閑話休題。最後は日本史上、画期的な出来事であった日米修好通商条約締結時の下田の総領事ハリスです。

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ハリス(Harris;米1804-1878)は自身が属する民主党の大統領に働きかけて日本へ赴任したそうです。時に安政2年(1855)のことでした。それまでのハリスはなかなか紆余曲折の人生のようでした。貧しい家庭環境に育ったため、進学を諦め商人から人生をスタートしています。後には教育者に転向し、この分野ではなかなかの実績もあったそうです。母親の死をきっかけに教育界からも手を引き、貿易商に関心をいだいて東洋に赴いたことから外交官への道筋ができた経緯があります。

日本でのハリスの活動を知る人は多いでしょうが、母国アメリカで大統領が共和党のリンカーンになったことを契機に文久2年(1862)日本を去った後の彼のことを知る人は少ないのではないでしょうか。

ハリスは生涯、独身だったので帰国しても出迎えてくれる家族もおらず、一人わびしい生活をニューヨークで過ごす後半生となります。しかも、時にアメリカは南北戦争の真最中だったので、ハリスの日本での功績に注目した人は誰一人いなかったといいます。後になって、政府が生活補助金を決定する有様です。74歳で生涯を終えるまで世間から忘れられ、ひっそりとした帰国後のハリスの人生だったということです。

明治維新前後、日本史に名を残した3人の外国人の“それから”を紹介しましたが、人生の意外な面を見せられて何か面白くもあり、少し悲しい思いもするのも事実です。

2006年12月記

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