第16話 ゲッチンゲンの山脈
経済学などの行動科学の分野に数学者が進出して以来、いまでは応用数学者の定義も広範囲になってしまっていますが、古典的な意味での応用数学者は応用力学者と言い換えてもいいほど、力学分野で高等数学を駆使した人たちのことでした。
数学史をひも解くと、かなり古くから数学者の多くは数学と物理との間を行き来している様子を見て取れますが、実用的な工学ともなりますと数学者から避けられている歴史がありますね。
筆者の感ずるところ、応用数学の父とも言える数学者はゲッチンゲン大学のフェリックス・クライン(F.Klein;独1849-1925)ではないかと思います。
現在でも“クラインの壺”や著書“19世紀の数学”で知られるクラインは彼自身、一流の数学者でもありましたが、精力的な啓蒙活動で数学の応用の重要性を説いて回り、抜群の組織力で応用数学の一分野を築くきっかけを作った人物でもあります。
1904年に開かれた数学者会議において、有名な“境界層理論”を発表したプラントル(Prandtl;独1875-1953)がクラインの目にとまり、ゲッチンゲンにスカウトされることになります(スカウトの時期は正確でないかもしれないですが)。そして後に、応用力学研究所の所長に推されます。
ゲッチンゲンといえば、ガウス-ディリクレ-リーマン-ヒルベルトと続く巨人たちを生み出した歴史上、他に類を見ない数学界の聖地でありました。そんな聖地に俗世と密接する応用数学の拠点を置くことに非難した人もいたといいます。
さて、プラントルのことです。後世、流体力学の分野で多くの貢献をなし、現に、“現代流体力学の父”とも呼ばれていますが、実は彼の早い時期には弾性学(固体力学)を研究していたのであります。
筆者も、学生時代に水理学を学んだ際、プラントルの名のもと“混合距離”や“プラントル数”といった用語が乱流理論の中に出てくるので、後に、棒のねじり解析を勉強していた時、出てきた“石鹸膜アナロジー”のプラントルが同一人物とは思えなかったほどです。また、地盤解析の分野の人たちが、例えば、フーチング下の地盤の崩壊でよく口にする“プラントル解”というのも、彼の塑性研究時の賜物であります。
プラントルは抜群の直感力を持った工学者であったといわれていますが、一方ですぐれた指導者でもありました。彼のもとからは、幾多の著名な工学者が巣立っているのです。
応用力学の人たちにはおなじみのチモシェンコ(Timoshenko;露1878-1972)、塑性学のナダイ(Nadai;牙1883-?)、連続体力学でのプラガー(Prager;1903-1980)、そして、プラントルがその才能を妬むほどの数学的才能を持ち、数々の業績を上げたテオドール・カルマン(T. Karman;牙1881-1963)と錚々たる人たちがプラントルのもとから巣立っているのです。カルマンについては次の話で登場してもらう予定でいます。
カルマンの自伝によると、プラントルの晩年はあまりよくなかったみたいです。ヒットラーが登場してきた最悪の時代、多くの優秀な科学者たちが新大陸へ脱出し、彼らの活躍が後のアメリカの隆盛をもたらしたのとは対照的に、ドイツに居残る運命を持ったプラントルはドイツ科学の終焉の役を担った一人のように思えるのです。
[追記]
後で分かったことですが、ヨーロッパでは最初の応用数学者であったルンゲ(C. Runge;独1856-1927)が“応用数学の父”と呼ばれているようです。彼もやはりクラインと同時代、ゲッチンゲンの数学教授でありました。初期値問題型微分方程式の数値解法“ルンゲ・クッタ法”で有名ですよね。工学の問題では振動方程式の解法によく使われています。
2002年11月記