第15話 地方の実力
日本で初めての官制大学、東京大学が創設されたのは西南の役があった年、明治10年(1877)のことでした。そのとき、物理の第一期生として入学した一人が第12話で登場してもらった田中館愛橘(1856-1952)でした。新入生としてはいささか年を食っていましたが、それはいろいろ遠回りしてきたからでした。当時、物理の先生といえば、日本人では山川健次郎(1854-1931)一人だったといわれています。田中館は南部藩士の家系であり、山川は会津出身です。山川は幕末の会津城落城の際、悲劇的最期を遂げた白虎隊を、年齢が満たないという理由で入隊がかなわなかったという数奇な経歴を持っています。
時代が少し下って、日清戦争の年、明治27年(1894)には後年、世界的な数学者となる高木貞治(1875-1960)が入学しています。この当時でも、日本人の数学の先生といえば、藤沢利喜太郎(1861-1933)と菊池大麓(1855-1917)だけでした。高木は岐阜県の出身、藤沢は新潟県の出身です(但し、父君の赴任地の関係で)。菊池は自身、江戸の生まれですが、幕末から明治にかけて活躍した有名な蘭学者、箕作阮甫、箕作秋坪を祖父、父に持つ生まれで、箕作家はもともと、岡山県津山市の出であります。
故司馬遼太郎さんの言葉を借りれば、“近代文明の配電盤”の役を背負っていた東京大学の草創期は地方の人間で成り立っていたようなものでした。もちろん、たくさんのお雇い外国人の先生から近代科学を伝授してもらったのですが、それを消化できたのは地方出身の逸材たちだったという歴史があります。
勝海舟が麟太郎の時代、学問を求めて、ある私塾へ入門願いに行ったところ、「江戸ものは根気がないから学問には向かない」といわれて、門前払いを食わされたエピソードを思い出します。
[星座の人]
前に出てきた山川健次郎のことが、最近、出版された“白虎隊と会津武士道(星亮一著、平凡社新書)”という本で大きく取り上げられています1 。この本の中で、著者は山川を形容する言葉として、“星座の人”と呼んでいます。
筆者はこの言葉を初めて知り、広辞苑をはじめ、いくつかの辞書を当たってみたのですが、いずれの辞書にも載っていませんでした。是非、この言葉のいわれを知りたくて、ついには著者の事務所までメールを入れて質問したところ、早急の返事をいただきました。
“星座の人”というのは東大の文書にあり、「昔、航海士が星座の位置を見ていけば間違いなかったように、この人の後をついていけば間違いない」という意味で使用されているとのことでした。
この言葉は山川のために用意されたように、彼は実に清廉潔白な人格者だったようです。東大での二度の総長職をはじめ、京大、九大の総長も務めただけでなく、いくつかの学校の長の位置に座ることを求められたことが彼の人格を物語っています。
特筆すべきは、彼の学生たちが何らかの事故で命を失ったときです。自分が少年のころ、若くして死んでいった白虎隊士のことがトラウマになっていたかのように、彼は真っ先に駆けつけたというではないですか。
2002年9月記
- 2003年10月には同著者による、“山川健次郎伝”という、そのものずばりの本が出版されています。 [↩]