第14話 レントゲンより先だった?
弾性問題に関係する人にとっては、“ヘルツの接触理論”でその名を一度は聞くかとは思いますヘルツ(Hertz; 独1857-1894) というドイツの実験物理学者がいますね。
もっとも、振動数の単位にその名が使用されていることから、世間的にはそちらの方で人口に膾炙していますが。ヘルツは37年間という短い生涯でした。
ヘルツを一番有名にしたのはもちろん、マクスウェル(Maxwll;英1831-1879)が予言した電磁波の存在を裏付ける実験を成功させたことですが、このノーベル賞級の実験も、彼が早死にしてしまったのでノーベル賞には無縁でした。1925年にノーベル賞を受賞しているヘルツは甥の方です。
ヘルツは最初、建築技師を目指していましたが、図面引きの単調な仕事の繰り返しに嫌気がさし、純粋科学の方面へ転向することになりました。これが天才的な実験物理学者の誕生逸話であります。
ヘルツはエネルギー保存則で有名な母国の物理学者ヘルムホルツ(Helmholtz;独1821-1894)に魅かれ、彼のいるベルリンで博士号取得試験を受けることになります。この時の審査官というのが、ヘルムホルツの他これまた著名な物理学者キルヒホッフ(Kirchhoff;独1824-1887)、それに“フェルマーの定理”の話題ではいつも登場してくる、数論で有名な数学者クンマー(Kummer;独1810-1893)でした。なんとも贅沢な役者が揃った舞台だったことでしょうか。
当然、試験をパスしたヘルツは最初、ヘルムホルツの助手となります。当時の物理学講座の組織はヘルムホルツ教授の元、キルヒホッフが助教授のような存在で、その下にヘルツがいる構成でした。これを見ても当時のドイツの実力というものがいかに瞠目すべきものだったか、思わず唸ってしまう人脈ですね。
ヘルムホルツの助手を皮切りにドイツ国内の大学を転々として出世していくヘルツでしたが、いつも物理学界の大御所ヘルムホルツにはいたいけなほど気を遣っており、手紙には最上級の呼称を使用するのが常でした。
ところで、ヘルツが短命だった背景には原因不明の病気がかかわっており、謎めいた様相があります。それは、知らず知らずのうちにX 線を浴びていたのではないか、と医学部出身の山崎岐男氏がその著書“ヘルツの生涯(考古堂刊)”で言及されています。
というのも、ヘルツは当時、注目されていた真空放電の実験の流れの中で陰極線管の放電実験もしていたのです。1901年、第1回目のノーベル物理学賞を受賞したレントゲン(Röntgen;独1845-1923)の受賞理由はもちろん、X 線の発見でしたが、そのX 線は偶然の発見であり、既に他の物理学者も事実上、発見していた公算が大といいます。その中でもヘルツが第一候補ではないか、と山崎氏は言っています。
それと言うのも、ヘルツが陰極線管の実験を、途中から助手に雇ったレーナルト(Lenard;独1862-1947)に任せた事実があるというのです。そのレーナルトがレントゲンの死後も、自分がレントゲンよりも早くX 線を発見していたと公言してはばからなかったといいます。しかし、それを言うなら、レーナルトの研究を先行着手していたヘルツにこそ栄冠があるというわけです。
余談となりますが、レーナルトも陰極線の研究で1905年のノーベル物理学賞を受賞するほどの大物物理学者でしたが、性格に偏狭的なところがあり、後年ユダヤ人排斥運動に走り、後半生は人道的に評価の悪い物理学者でもありました。X 線の発言はその性格が出始めた嚆矢であったかも知れません。
アインシュタインが華々しくデビューした時も、相対性理論は世間をたぶらかす理論だと言って絶対に認めなかったといいます。アインシュタインの国外追放の急先鋒だった人物でもありました。
2002年9月記