第7話 オイラーとガウス
レオンハルト・オイラー(L. Euler;瑞1707-1783)とカール・フリードリヒ・ガウス(K. F. Gauss;独1777-1855)。前者は18世紀最高の数学者、後者は19世紀というよりも数学史上の頂点に立つキングですね。ともに万能の数学者であり、本エッセイの中にも何度か登場願ってもらっています。
筆者の手元に愛用している小振りの数学公式集(初版が昭和28年)があります。この公式集の索引欄で人名が冠せられている索引を多い順に並べてみますと、フランスの数学者ラゲール(Laguerre;仏1834-1886)の12を筆頭に、以下、第1話で登場してもらいましたルジャンドル(Legendre;仏1752-1833)の10、フーリエ(Fourier;仏1768-1830)の9についで、オイラーが9、ガウスが8となっています。この数字の多寡が別に数学者としての偉大さを示す指標でないことは言うまでもありません。今回の主役オイラーとガウスがいかに多く数学、物理方面で貢献したかの一例として挙げたに過ぎません。
筆者らが所属する現在の工学分野でも、この二人の恩恵を非常に多く蒙っていますね。工学部出身者で、この二人の名を一度も聞いたことがないという者はいないでしょう。どこかで必ずこの二人の名が冠せられた専門用語に出会っているはずです。
ところで、筆者はこの二人、時代にかなりの隔たりがあると思っていたのですが、ガウスが生まれた時にオイラーは最晩年を迎えている時期であり、6年間ほどの共存期間があったのですね。これは筆者にはちょっと意外でした。しかし、いかに幼少期から数学的才能を発揮して、神童とうたわれたガウスといえども、その年齢ではオイラーとの交流は皆無だったでしょう。
オイラーは牧師の父親を持ち、ガウスは瓦職人を父親に持ち、ともにその才能を認める周りの協力を得て、父親の望む後継ぎから逃れたという共通点があります。特にオイラーの場合、スイスでの数学家系ベルヌイ(Bernoulli)一族に認められ、支援されたことがその後の一生を決めたことは有名な話であります。
この二人の天才には、決して恵まれた家庭の出自ではなかったこと、非常な勉強家であったという共通点がありましたが、研究者としての態度は対照的でありました。
オイラーは史上最高の多産型の数学者で、その執筆量は書籍だけで45冊、700編以上の論分数があり、死後にもたくさん発見されています。現代になってスイス版“オイラー全集”を出版しようとしたところ、全74巻にもなったといいます。誰かが計算したところ、オイラーは年間800ページの執筆をしていたことになるそうです。
もっとも、現代の数学的観点からすれば「玉石混交なきにしもあらず」といったところもあるようで、それを聞くと、筆者はつい、俳聖松尾芭蕉を連想してしまいます。専門家に言わせると、芭蕉は多くの名句を残した一方、駄作も結構あるといいます。
オイラーに戻って追記しておきますと、多産なのは私生活面でもそうであり、子供を13人もうけたといいます(成人まで生きたのは5人)。
驚くのはこれだけでありません。多産型の猛研究のため片目を失明し、それにもくじけず研究を続け、しまいには残った目も失明してしまい、晩年は完全な盲目であったといいます。さらに驚くなかれ、それでも頭の中で計算を行い、協力者に書き取らせたそうです。ほんとに、研究者の鑑のような人だったのですね。
現在、理工学系の仕事に携わる人が、数式の中によく出てくる“π”、“e”、“(i 虚数表記)”、“μ(摩擦係数)”を見つけたら、たまにはオイラーの努力に敬意を払いましょう。これらの表記はオイラーが使い始めたものを現在、われわれも使用しているのです。
さて、一方のガウスはといえば、著作物は大数学者のわりには極端に少ないようです。しかし、その少ない著作物は、その後の数学の流れを方向付けるような重要な内容を含んでいるものでありました。彼の研究内容は書物の余白に書かれたメモや、友人たちとの交流文書の中にあることが多かったそうです。
公表された論文が少ないのは彼が完璧主義者というか慎重居士というか、自分の理論が完璧になるまでは、世間に公表しなかったためといわれています。換言すれば、彼は数学の怖さを知っていたのです。級数の収束性問題、無限の取り扱いなどが完全になるまでは、むやみには数学を論じようとはしなかったといいます。それで、ガウスの寡黙が10人の数学者の栄光をもたらしたともいわれています。
この点がオイラーとの大きな違いです。数学的厳密性がまだおおらかな時代背景にあったオイラーは、級数の収束性を気にはしていたらしいですが、それにもかかわらず実際の自分の研究では深く吟味せず使用していたといいます。
そんなことで、ガウスの諸発見が公表されることに時間の遅れが出るため、悪くとらえれば彼が“意地悪じいさん”に見えてくるのも事実です。若手数学者が何か数学上の発見をしたと思ってガウスに知らせると、そんな事実は既に彼によって発見済みというケースが多かったといいます。複素関数といえばコーシー(Cauchy;仏1789-1857)ですが、その分野で有名な“コーシーの定理”も歴史的にはガウスが先取していたといわれています。
ガウスの話をすれば、筆者は語らずには終われない1つの悲劇があります。歴史の気まぐれが生んだアーベルの悲劇であります。ノルウェイが生んだ天才ニールス・アーベル(N. H. Abel;威1802-1829)は、同じく20代で夭折したフランスのエヴァリスト・ガロア(E. Galois;仏1811-1832)とともに数学界の麒麟児とうたわれました。アーベルは「5次方程式以上の方程式は代数的には根を求められない」という証明を時の数学界の大御所ガウスに送りました。代数的というのは我々が高校数学で習った2次方程式の解法でやるように、方程式の係数を使って四則演算だけで解くことをいいます。
だが、悲劇はタイトルに“代数的に”という言葉が落ちていたことに始まります。既に、自分自身、複素数を導入してすべての方程式の根は求まることを立証していたガウスは、送付されてきた論文を机の中に入れたままにしてしまいました。その頃のガウスの下には彼にとってつまらない論文が多く送られていたことも悲劇の遠因となっていたのです。
後年、ガウスがアーベルから送られてきた論文の真意に気づいたとき、既にアーベルは他界した後でありました。ああ、無念なり、アーベル。
2001年5月 記