FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第5話 驚くべき天才ノイマン

1954年、アメリカ航空学会にてカリフォニア大学のクラウ(Clough)、ワシントン大学のマーチン(Martin)、そしてボーイング社のターナ(Turner)たちによって発表された論文“Stiffness and Deflection Analysis of Complex Structures”が今日、いたる所の理数工学方面で強力な数値解析法として利用されている有限要素法
の嚆矢とされています。

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また、これがなくては有限要素法も机上の空論で終わったであろう、現在のコンピュータの元祖が初めて開発されたのは1945年のことであります。世界最初の電子式コンピュータで有名なENIAC のことです。思わず唸ってしまう歴史の妙でもありますね。

ENIAC はペンシルバニア大学の、モークリー(Mauchly)とエッカート(Eckert)の二人が大量の真空管を使用して開発したものです。標準的な情報教育の教科書には、彼ら二人がコンピュータ開発の元祖と書かれているはずです。コンピュータ開発の名誉ある先行者という点ではいろいろ疑問も投げかけられていますが、その詮索はここでのテーマではありませんので、一応このままにしておきます。

このENIAC に対面して、その後のコンピュータの発展に大きく貢献した人物ジョン・フォン・ノイマン(J. V. Neumann;牙1903-1957)の紹介が、ここでのテーマであります。

ノイマンは人間離れした記憶力と計算能力で、悪魔が間違って人間の姿になったと言われた超能力の持ち主で、とにかく逸話に事欠かない人物であります。“ノイマン型コンピュータ”というネーミングで今も使用されているプログラム内蔵式の計算機を考えた時、「これで、世界で2番目に早く計算できる奴ができた」と言ったといわれています。

ノイマンは1903年ハンガリーの首都ブタペストで生まれました。ユダヤ人であるゆえ、ナチスの迫害を逃れて後年、アメリカに渡ることになります。1957年、ガンに侵されて亡くなるまでの54年間という比較的短い生涯の中で、量子力学の数学的基礎付けに始まり、ゲーム理論の確立、コンピュータの育成、数値気象学、衝撃波の研究、そして最後はロスアラモスでの原子爆弾の研究と、科学者として多彩な才能をいかんなく発揮しています。

筆者がノイマンという名を初めて目にしたのは学生時代に知ったゲーム理論の参考書からでした。日本軍の特攻隊攻撃に悩まされた米軍の対策としてOR(オペレーションズリサーチ)が生まれましたが、その一環として恐らくゲーム理論も考えられたのでしょう。面白いことに、ノイマンといえどもポーカーだけは計算どおりに勝てなかったので、その対策にゲーム理論なるものを考え出したのではともいわれています。なお、ゲーム理論は行動科学の重要な理論的道具であり、現在では計量経済学とも深く関係していることは読者諸氏には先刻ご承知のことと思います。

学園生活の後半、筆者がコンピュータを使い出した時、ゲーム理論のノイマンがコンピュータのノイマンと同一人物であることを知り驚いたものです。もし、一人でノーベル物理学賞、ノーベル経済学賞、数学界のフィールズ賞を受賞する頭脳を持つ人物がいたとしたら、それはノイマンをおいて他にいなかったのではと筆者は思っています。ですが、彼はこれらのどの賞も受賞はしていません(もっともノーベル経済学賞は彼の存命中にはありませんでしたね)。しかも、これだけの天才なのにニュートンやアインシュタインが文系、理系を問わず世間一般の人によく知られているようにはノイマンはならなかったのです。これはなぜなのでしょう。

そのことに触れる前に、余談となりますが、ハンガリーの不思議というものを先に言っておきます。今(2001年当時)、テレビによく登場しているピーター・フランクルという人がいますね。彼は大道芸人と称していますが、若い頃、数学オリンピックで金賞を射止めたほどの数学的才能の持ち主だったことはよく知られていますね。実は彼もハンガリー人であります。また、以前、ルービック・キューブという数学的おもちゃが広まったことがありますが、これを作った人物もハンガリー人であります。

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ノイマンと同時代を生き、同じくロスアラモスで原爆研究に携わったウィグナー(ノーベル物理学賞受賞)、シラード、テラーという天才物理学者たちもハンガリー人でありました。こう見てくると、ハンガリーという国は何か数学的、物理的天才を誕生させる土壌があるのだろうかと興味深い思いを持ちますね。

閑話休題。さて、ノイマンのことです。彼の天才性には独特の特徴がありました。ニュートン、アインシュタインのように何か新しいものを創造するタイプではなく、既に出ている芽が彼の琴線に触れると、これが大きく育ってしまうというタイプの天才のようです。

ノイマンが街中を歩いているとしましょう。向こうの方から何かの問題解決に悩みを持つ同僚が近づいてきます。やがて二人が出会い、立ち話を始めます。ノイマンは相手の悩みを15分ほど聞いてやることになります。すると、彼はたちまちその問題の本質をつかみ、先を見通してしまいます。しかも、その問題に関して相手の人間よりも詳しくなってしまうのです。

コンピュータが典型的な例でした。1944年の夏、ノイマンはある駅で汽車が来るのを待っていました。同じホームにたまたま、ENIAC の開発に関係していた人がいて、その人から話を持ちかけられます。たちまち、ノイマンはコンピュータの論理を脳の構造へと見通してしまうのであります。

ENIAC からEDVAC への成長、さらにその後のコンピュータの発展過程において、モークリーとエッカートが「ノイマンにしてやられた」と言ったといいます。悪い見方をすれば、ノイマンは“人の仕事を盗む奴”とも取られてしまうわけであります。 人柄がいい天才にもかかわらず、ノイマンには損をしている一つの立場がありました。人生の晩年に原爆の開発に携わり、しかも、その投下地点を左右できるほどの地位にあったことです。さらに、彼は政治的には核を保有することによって核戦争の抑止ができるという考えを持つ超タカ派だったのです。ここらが、ナチス対策のためとはいえ原爆開発を時のルーズベルト大統領に要請したことを後に悔やみ、平和運動に走ったアインシュタインが圧倒的に大衆人気を得たのとは対照的な違いですね。

ロスアラモスに集まった天才たち、しかもノーベル賞を受賞するほどの天才たちから、「並みの天才はいくらでもいるが、天才の中の天才はノイマンだ」と言わしめたほどの才能がいまいち、大衆の中で名が知られていないのは、人間よりも科学を優先させたように思える彼の価値観が大きく関係しているのでしょうか。

最晩年、ノイマンは病床にいました。悪魔と見まちがわれたほどの頭脳は既にガンで病んでいました。病室の周りには陸軍からは毎日、交代でいつも何人かの軍人が見守っていたといいます。大天才に敬意を払っての派遣ではありません。病んだ脳から国家機密が漏れるのを恐れての看病だったといわれています。

才能がないというのも辛いものですが、才能があり過ぎるというのも考え物だという、何か悲しいノイマンの人生ですね。

2001年1月記

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