第29話 有限要素法の父
有限要素法の理論を最初に提示したのが、前の話の最後に紹介したクーラント(Courant;独1888-1972)であることを知っている人は、おそらく有限要素法の基礎に造詣が深い人であろう。
工学分野では、1956年に発表されたボーイング社の M. J. Turner、R. W. Clough らによる論文が有限要素法の嚆矢とみなされているが、数学方面では1922年に既にクーラントが有限要素法の考えを彼の著書で言及している。さらに、1943年には偏微分方程式と変分問題を論じた際に、応用として棒のねじり問題に三角メッシュを適用して有限要素法を使用している。だから、有限要素法の父と言えば、クーラントになるかもしれない。
ただ、有限要素法(Finite Element Method)というネーミングがクーラントによるものかといえば、そうではなく、こちらの方は1960年に R. W. Clough が発表した論文で初めて世間に登場したようだ。
クーラントは、彼の生きた時代に数学の大きな流れであった抽象化を嫌い、具体的な数学を好んだ人であった。固有値問題、偏微分方程式、変分法といった工学系の人間にもお馴染の数学、さらに“ディリクレの原理”、“プラトーの問題”といった極めて物理的な数学が彼の心をとらえた。
ディリクレの原理というのは、非常に興味深い歴史を持つテーマであるが、話せば長くなるので別の機会にしたいと思う。
プラトーの問題というのは、ディリクレの原理とよく似ているが早い話、石鹸膜の数学である。
閉じた空間曲線に張る面積極小曲面が存在し得るかという興味深いテーマである。このテーマを実験による観察と理論的洞察を行ったベルギーのプラトー(Plateau;耳1801-1883)にちなんで名づけられた問題である。ニューヨークに研究場所を移したクーラントの心をとらえた問題である。しかし、この問題は極めて難問であり、非常に奥が深いことがだんだんと分かってきており、いまだ完全に解決されていないようである。
余談であるが、プラトーという人は28歳のとき、光学実験のため120秒間、裸眼で太陽を凝視したため、後に完全失明する不幸にあった。それでも家族に助けられながら82歳の高齢まで研究を続けたそうだ。
閑話休題。第三者的視点からは、応用数学者のように振る舞っていたクーラントは自分ではそうとは思わず、生涯、恩師のヒルベルトを尊敬し、ヒルベルトの弟子を自認していた。事実、ヒルベルトが一時期、関心を持っていた変分法を担当し、ディリクレ原理を深く洞察することになる。
クーラントと言えば、数学研究者としての顔のほか、組織力を持った統率者としても名をはせていた。ゲッチンゲンでの壮年期、数学研究所の所長を勤め、数学界のボス的存在だった老クラインの若き姿をダブらせていた。
後年、ニューヨーク大学に籍を移しても、ヨーロッパから移住してくる数学者の面倒をよく見る親分肌の人で、ここでも数学研究所の所長を勤めている。後のクーラント研究所である。
2004年8月 記