第10話 注意せよ特異点
有限要素法というのは、一面では誤差の最小化問題と言える。すなわち、最小二乗法と同じく、全体を見渡して誤差が最小となるようなパラメータ(変位型有限要素法の場合、節点変位)を決定する数値解析法である。したがって、解が平均的な意味合いに近いものが求まるため、応力集中部を端的な例とする局部的な応力分布の精度はよくない。
解析対象全般の解析精度を上げるにはメッシュ数(パラメータ数)を増やすほか、応力集中部では、さらに局部的にメッシュの細分割化も必要になってくる。原理的に言えば、「有限要素法の精度はメッシュの数を増やせば増やすほど精度がよくなる」ものである。
対象とするのが本来、連続体(もちろん、マクロな現象を扱う古典弾性学の範囲で)であり、それを人工的に離散化したメッシュでモデル化しているのだから、その数が増えれば増えるほど連続体に近づくのは当たり前という理由がある。ただし、これはあくまでも一般論での話である。いくらメッシュ数を増やしても精度がよくなるどころか、どんどん解が発散していく場合がある。
よく、有限要素法における開発要素の精度を見るため、片持ち梁の固定端部(図10-1での A点)の応力を梁要素の結果と比較しているケースが見受けられる。
しかし、注意を要するのは、A 点での応力がメッシュを増やせば増やすほど増加していくことである。精度比較しているケースでのメッシュ密度は技術的な判断で決定したものである。そもそも、A 点での応力は、弾性学的には厳密に応力が求まらない点なのである。こういう点を応力場の特異点という。
特異点で一番有名なのは集中荷重が作用する半無限弾性体の問題である(図10-2)。
これはブシネスク1 問題と言われている。この問題の応力値は荷重作用点からの距離 r を分母に持つ関数となり、荷重直下点では解が破綻する。
有限要素法が万能型の数値解析なため、これを使用すれば、どんな問題もOKと思っている方もおられるかもしれないが、それはとんでもない誤解である。有限要素法といえども特異点の問題は避けられない。避けられないだけでなく、特異点近傍の応力を求めることは、実は有限要素法は苦手なのである。
特異点になりうる場所としては、境界線(面)での連続性をこわす荷重作用点、隅角部、角点、鋭い角度を持つ切り欠き部など、ひと言でいえば不連続点である。この理由は、応力の発生源泉である歪の式を思い出せば、理解の一助になるだろう。例えば、軸歪の1つ、下式を取り上げてみる。
いま、2次元構造物の表面ラインでの∂U / ∂X を考えてみよう。表面ラインが図10-3の C ラインのようになめらかな曲線だと、この微分項は曲線上各点での接線を表すから、すべての位置で求まる。しかし、L ラインのように一部に鋭い折れ角を持つような点があると、その位置では微分が取れないので、もはや接線は求められない。
おそらく、∂U / ∂X=∞のような状態になるのであろう。これが、特異点近傍のメッシュを細かくすればするほど、応力値がどんどん増大していく理由である。
解析モデルの簡略化で、実際には存在している R 部(フィレット)を無視して、角点等を直線あるいは平面で交差させることが多々あるが、この時は、注意を要する。その位置が注目領域外であるならば、それでいいが、もし、注目する応力集中位置であるならば、もはや、このモデリングでは正解は求められないと心得るべし。
有限要素法でも切り欠き部やひび割れ部の応力をある程度追跡できるような特殊な要素も開発されているが、一般には、これらの応力解析では境界要素法(BEM)に軍杯があがる。
今度は図10-1を片持ち梁でなく、両端固定梁の中央部に集中荷重が作用している問題とみなそう。ただし、梁中央部の対称条件を利用するため、そこでの横方向の変位は拘束されている。
この問題での応力値はどうであろう。A 点、B 点はやはり特異点で、メッシュの増加で値は発散する。C 点も角点で特異点になりそうだが、想像に反して結果は収束する。これは、C 点が角点になっているのは、解析モデルの対称性を利用したため人工的に作られた角点であり、本来は連続点であるからだ。
有限要素法のユーザの中には、節点位置での応力値を過信する方が時折、見受けられるが、節点位置には特異点の存在があることを注意しないといけない。
2001年6月 記
- ブシネスク(Boussinesq;仏1842-1929)はサン-ヴナンの原理で有名なサン-ヴナン(Saint-Venant;仏1797-1886)の弟子である。サン-ヴナンについては次の話で登場してもらう予定だが、彼には弾性学の歴史上、それぞれ名を残す有名な弟子たちが幾人もいた。その中でもブシネスクは一番の弟子であった。ブシネスクは元々、高校数学の先生をしていたが、弾性論の論文を科学アカデミーに送ったのが、サン-ヴナンの目にとまるところとなった。これが機縁で彼はサン-ヴナンの尽力により大学の教授職の地位を得ることになる。後年、パリ大学の力学教授となり、政治、学会から距離をおいて研究に傾注した人生を送ったという。 [↩]