FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第32話 人間道楽だった、ある出版人

以前、古本市で買ってきた本をこの年末、年始の間にようやく読むことができました。それは、安倍能成著「岩波茂雄傳」です。言わずと知れた岩波書店の創業者、岩波茂雄の伝記です。著者の安倍能成は、哲学者であり教育者でもあった、後には文部大臣も務めた明治生まれの人です。岩波茂雄とは旧制第一高等学校では同期生(実際は、岩波が1期上でしたが、落第したため同期になったようです。なお、この期には、「嚴頭之感」を残して華厳の滝に投身自殺した有名な藤村操もいました)で、終生の親友だったようです。

 

本書は、安倍が昭和32年に刊行したもので、もちろん文体は口語体ですが、書名でも分かるように、漢字は旧漢字が使用されているので、それが苦手な人には、いささか読みづらいかもしれません-今、新装版も出ているようで、そちらは常用漢字になっているかもしれませんが。

筆者が、岩波茂雄(1881-1946)の名を初めて知ったのは、二十歳過ぎの頃でした。その当時、筆者は、長野県長野市の西側を流れている裾花川という川に掛かる橋の上を何度も渡る機会がありました-読者は何年か前にあった、JR長野駅のプラットフォーム上で熊が歩いていたというニュースを覚えておられるでしょうか。あの時、駅の場面に続いて河原にいる熊の姿の映像が流れていましたが、あの川が裾花川です。筆者は、その裾花川の右岸側にあった安茂里という場所とセットにして岩波茂雄の名を誰かに聞いた覚えがあります。それでてっきり、岩波茂雄が当地の出身者と勘違いしてしまい、しばらく後年まで、そのままの記憶でいました。もちろん、岩波茂雄の出身地は同じ信州でも北信の長野市ではなく、中信の諏訪市であります。

情報ミスの源泉は、たぶん岩波の晩年の姿にあったと思います。昭和20年の秋、3日前に長男の葬儀があったというのに、岩波の姿は長野市にありました。それは、知人の葬儀に参列するためであり、その弔辞を読んでいる最中に、今度は自分自身が倒れたのです。脳溢血でした。この時は、一命をとり留め、ひと月ほど長野市で療養していたそうです。この場所が、安茂里だったのかどうかまでは分かりませんが、混乱の原因はこの辺りにあったのではないでしょうか。

前記の本によれば、岩波書店の創業は、意外にもそんなに古くはなく、大正2年(1913)とのことです。岩波が32歳の時です。最初は、古本屋からスタートしたようです。65 歳で亡くなるまで(昭和21 年)、終始オーナー経営者だったので、岩波茂雄の思いが創業時から今に至るまで、岩波書店の方針に色濃く残っています。出版物の表紙に見られる岩波書店のマークにミレーの「種まく人」を採用したのも、農家出身の岩波が持つ労働=神聖という精神からきたものでした。

人間道楽と揶揄されるほど、趣味のように多くの人たちを訪れたり、招いたりするのが好きな岩波でした。しかし、俗に文士と呼ばれるような人たちには、ほとんど近寄らず、学者たちが多かったようです。ただし、夏目漱石と幸田露伴は例外です。漱石などは、岩波書店の創業時、「こころ」を出版させてもらったおかげで事業が好スタートを切れたように、岩波書店にとっては大恩人でありました。

岩波の付き合いが、学者たちに偏っていたことが、岩波書店の出版物に小説類が少なく、学術書に近い硬い内容の書籍が多い理由であります。特に哲学関係の出版物が多いのは、岩波が、東京帝国大学哲学科選科卒だったのと、その前の一校時代には、人生問題に悩んだことの経験が大きく関係していると思います。

意外なのは、哲学書とならんで、科学書が多いことです。これは、日本が欧米から比べて、哲学同様、科学方面も遅れていることから、その啓蒙活動のために科学書の出版にも力を入れたことのようです。ここらが、岩波茂雄の偉いところですね。彼の人生を眺めても、彼自身には、科学関係の素養というものが何も感じられません。それなのに、科学書出版に成功しているのは、あの人間道楽が理由です。彼の周辺には、一流の科学者たちがいたのです。

その中でも、三人の人間の存在が大きかったと思います。まずは、年は3歳ほど下でしたが、同じ郷土出身の気象学者・藤原咲平です。この人は、日本の気象学史上、一番有名な人でないでしょうか(本エッセイ・第1 話参照)。次に、「漱石全集」の刊行で、付き合いの深くなった寺田寅彦です。3 人目は、スキャンダラスな恋愛事件を起こして東北帝国大学を追われた、理論物理学者・石原純です(理系夜話・第58 話参照)。石原などは、岩波に拾ってもらい、生活面で助けてもらった関係でした。

岩波が科学関係の学者も大事にし、頼りにもした結果が、岩波書店の出版物に科学関係の本が多かった理由です。この点は、ライバルの出版社にはあまり見られない現象でした。そんなことで、筆者の世代でも、大学の図書館でよく目にした戦前の名著といわれた書籍が多く刊行されたのでした。筆者の接触した分野では、次のような名著がありました。

 

■物部長穂著 「水理学」
■妹沢克惟著 「振動学」
■高木貞治著 「解析概論」
■寺澤寛一著 「自然科学者のための数学概論」

 

さて最後に、岩波茂雄個人についても少し紹介しておきましょう。青少年時代から西郷南洲と吉田松陰を敬愛し続け、信州・諏訪から初めて東京へ出て、杉浦重剛が校長をする日本中学に懇願するように入学した岩波でした。そして、終生、明治維新時の「五箇条の御誓文」の精神を愛し、店主部屋の壁にこれ飾っていたといいます。これを聞くと、典型的な国粋主義者のように思われますが、実際は全然違いました。本人が、「自分は自由主義者だ」といっているように皇室を敬愛していても、皇国主義的な思想には嫌悪していました。それゆえ、増長していく軍部には常に批判的でありました。

清濁併せ呑むところがあった岩波ですが、悪ガキがそのまま政治家になったような郷土の先輩、小川平吉を徹底的に毛嫌いしていたかと思えば、その小川を評価していた右翼の巨頭・頭山満を敬愛するという、余人には測りがたい一面も持っていました。安倍は、岩波のことを、長所も多かった人間だったが、短所も多かった人間だったと、冒頭の書籍の中で正直に吐露しています。

読者諸氏の中に、現役の工学部の学生さんがいましたら、是非岩波新書の中の科学書を読むことをお勧めします。なかなかいい本があり、勉強になりますよ。そして、新書を手にとったならば、岩波茂雄という人間がいたことも思い出してみて下さい。

2018年正月記

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