第31話 寸多知寸知久(Statistics)
江戸幕末を背景にした本を読んでいると、ときおり杉享二(こうじ)という名を目にすることがあります。よくある勤王志士と佐幕派との丁々発止の類ではなく、洋学者仲間の物語の中での話です。
杉享二と言われても、歴史の教科書に登場しているわけでもないし、一部の専門分野の人を除いて、ほとんどの人には知られていない名ではないかと想像します。一部の専門分野というのは、統計学のことです。この人、実は「日本統計学の祖」といわれているのです。
過日、津田梅子の親父殿・津田仙の評伝を読んでいましたら、やはり杉享二の名が出てきました。幕末期の洋学者に手塚律蔵という人がいたのですが、彼が経営する私塾の塾生の一人として、津田仙とともに杉享二もいたとのことです。ついでに言っておきますと、この私塾は、又新堂(ゆうしんどう)といって、後の明治6年に啓蒙思想家たちで創設された有名な明六社の社員の多くが、その当時入塾していたようです。変わり種の塾生に後の木戸孝允がいました。手塚律蔵がやはり出身が長州だったからでしょうか。
手塚という名が出たので、ここでちょっと寄り道をさせてください。福沢諭吉の自伝「福翁自伝」には福沢が大坂の適塾にいた頃の面白い話がいろいろ掲載されていますが、その中の一つに、「遊女の贋手紙騒動」があります。
福沢らが悪戯心で、ある塾生の一人に対して、北新地の遊女が書いてきたという贋の手紙を届ける顛末ですが、このからかわれた塾生の名が手塚といいます。この手塚という人物が、何と漫画家・手塚治虫の曽祖父だったということは、いつほどか耳にしていたのですが、筆者はてっきり、この手塚こそ手塚律蔵だと思っていました。が、これは、全くの勘違いで、手塚治虫の曽祖父の方は手塚良仙という人だそうです。筆者は、漫画本をほとんど開いたことがない者なので知らなかったのですが、手塚治虫の歴史漫画に手塚良仙を主人公にした「陽だまりの樹」とういうのがあるそうですね。
同時期、同分野で登場する同名の人物には、要注意というサンプルみたいな話ですが、そもそも上で出てきた「津田」という人名にしても要注意です。幕末、明治期を生き、ほとんど同じような享年数を持つ我々が知る人物に、先の津田仙のほか、津田真道と津田出がいます。それぞれ津田仙は佐倉藩、津田真道は津山藩、津田出は紀州藩と、出身地こそ違いますが、若い頃は蘭学者の世界に同席していたので、紛らわしいばかりです。
閑話休題。杉享二の話に戻ります。
杉は、明治期に、今で言うテクノクラートに近い官僚となって、後年、国勢調査事業の必要性を説き、その実務にも携わったことから、近代統計学の祖と呼ばれることになるのですが、彼の前半生にこそ-もちろんまだ江戸時代の頃の話ですが、なかなか興味深いものがあるのです。
生まれは長崎でした。文政11年(1828)の生まれといいますから、あの有名なシーボルト事件が起こった年です。両親を早くに亡くし、不遇と貧乏な少年時代を過ごしています。この人の一生を概観するに、不幸と幸運が非常に入り混じった生涯だったような感想を持ちます。家庭を持ってから11人の子宝に恵まれるのですが、その多くは不幸な死を迎えています。自身も晩年には、両眼を失明するのですが、文政から大正(1917)まで生きたという長命(89歳)の人でもありました。
幸運は、何と言っても人との出会いでしょうか。出会いといっても、偶然の出会いではなく、杉の向学心の賜物でありますが。江戸期での杉のプロフィールを今風に端的に言えば、あちこちから声が掛かる学習塾の人気講師から東京大学の講師に招かれた人物というところでしょうか。その過程で、歴史を彩る人物たちとのやりとりがありました。
生まれの地が長崎だったということからして、杉にとって幸運だったといえるでしょう。海外文明に接する窓口でもあり、洋学に目覚めて、向学心に燃えた人材たちが各地からやって来る場所でもあるという好条件が揃っていました。
社会への入口での出会い人物からして興味深いものがあります。丁稚奉公に入った舶来物を扱う店の店主が上野彦馬の親父殿だといいます。上野彦馬と言えば、坂本龍馬や高杉晋作の肖像写真を撮ったことで有名な本邦初の写真館を始めた人物です。
その後、縁があって大坂にある緒方洪庵の適塾に入門しますが、この時は、不幸に見舞われます。在坂中に脚気を患って、わずか3ヶ月で長崎に帰ってしまう羽目になりました。
再起を図って、今度は江戸の地を目指したのですが、今度の出会いは、勝海舟でした。いささか押しかけの形で、勝の経営する蘭学塾の塾頭を務めています。勝との交流は、勝の死まで続いたようです。
勝の線から、時の筆頭老中、阿部正弘の知遇を得るところとなり、幕府開設の洋学所(後の東京大学へつながる)での職を得るところとなります。職務の多くは、海外情報を翻訳しては幕府官僚たちに提供することでしたが、この時、目にしたオランダからの統計書が、彼が統計分野に興味をいだかせる嚆矢だったといいます。
事程左様に、杉享二の青春時代は多彩な顔ぶれたちに囲まれた人生で、ちょっとした幕末の青春ドラマになってもいいと思うぐらいです。明治に入っての彼の人生は、江戸時代末期、既に幕臣になっていた関係もあって、徳川家の駿府への移住に伴い生活の場を一時期静岡県においた時、わが国初の人口統計調査の実施をやってのけています。
やがて明治新政府に出仕することになりますが、皮肉にも彼の名を残した統計事業の人生は、地味なことであり改めてここで紹介するようなエピソードなど無いのですが、一つだけ「統計訳字論争」というのがありました-但し、彼が直接関わったことではないのですが。
杉たち国の統計事業に携わった人たちは、実は「統計」という訳語を使わず、「スタチスチック(statistics)」という原語のカタカナ読みを使っていました。「統計」という訳語は、明治期の法学者で後の法政大学初代校長であり、明六社の一員でもあった箕作麟祥が、ある原書を訳した書名に「統計学」と名付けたのが一般に普及していったようです。最初の頃は、なんと「statistics」に「杉たち国の統計事業に携わった人たちは、実は「統計」という訳語を使わず、「スタチスチック(statistics)」という原語のカタカナ読みを使っていました。「統計」という訳語は、明治期の法学者で後の法政大学初代校長であり、明六社の一員でもあった箕作麟祥が、ある原書を訳した書名に「統計学」と名付けたのが一般に普及していったようです。最初の頃は、なんと「statistics」に「寸多知寸知久」なんていう当て字も使われていたこともあったそうです。
しかし、杉らは、「統計には、統(すべ)てを計(はか)る、という意味に捉えられ、これは合計を意味し、会計簿記と誤解される」との見解から、あえて原語をそのまま使用していたそうです。ずいぶん、字義にこだわった明治初期ならではの話ですね。
ところが、これに反論したのが森鴎外でした。「そんなことを言うなら、化学と訳するのは、妖怪変化の学問となるではないか」、「スタチスチックでは長すぎて、ハンカチーフがハンカチと不正確に呼ばれた二の舞いになる」と、「統計」を擁護したそうです。鴎外という人は、随分と論争好きの傾向があり、相手の揚げ足を取ることもあった人ですが、この場合は、鴎外の意見に拍手を送りたいですし、第一そのようになったことは歴史が示しています。
「statistics」についての余談なのですが、筆者などは、別の英字との区別に悩ましさを持ちます。本エッセイの読者のほとんどは工学部門の仕事あるいは勉強をされている方々だと思いますが、中でも力学系の学問に携わった人は、必ず静力学を学びます。その静力学の原語が「statics」です。紛らわしさを感じるのは筆者一人でしょうか。
さて、杉享二のことですが、彼の胸像が生地長崎にある長崎公園入口近くにあることを最近知りました。筆者は、何度か長崎には訪れているのですが、その存在を全く知らなかったです。今度訪れることがあれば、是非訪ねてみたいと思っています。
2017年8月記