第28話 近代日本黎明期のアーキテクト
岐阜県の土岐市に妻木町という地域があるとのことです。地図を眺めて、JR中央本線の土岐市駅の位置を少し南にたどっていくと、たしかに妻木という町名を見つけることができます。祖先がこの地から出た一族の中に、近代日本の黎明期に活躍した建築家の一人、妻木頼黄(よりなか)がいました。幕臣の子として安政6年(1859)、江戸で生まれています。代々の旗本であり、頼黄の父親は千石取りといいますから、結構な家柄だったのでしょう。
昨年、東京駅開業100周年を迎えた際、駅舎の設計者ということで改めて名前を知られる機会が増えた辰野金吾や奈良、京都での国立博物館などの今に至る多くの重要建築物の設計者として知られる片山東熊という、“建築”が“造家”と呼ばれていた時代をともに生きた二人に比べると、妻木頼黄の名は、建築史を修めた人でもない限り、知る人は少ないでしょうか。それは、彼の出自が旗本だった影響なのか-辰野金吾は唐津藩の出身、片山東熊は長州藩の出身-技術官僚に留まって仕事をしたせいかもしれません。いわゆる、妻木はテクノクラートだったのです。そのおかげか、設計した建築物の数でいえば、二人の先輩にくらべて格段に多かったとのことです。
この妻木頼黄を主人公に、評伝風の短編小説にしたのが、建築家でもある作家の東秀紀氏です。その小説とは、「日本橋の意匠」です。建築家と日本橋では、何か意味ありげですが、それは後で分かりますので、今しばらくお待ちください。この小説は、著者のイマジネーションも入っているので、たしかに小説なのでしょうが、エッセイとも受け取れます。東氏の作品は、こういう作風が特徴のようなのですが、扱う内容、作風とも、実は筆者好みなのです。
この小説を読んでいて知らされたのですが、妻木の交流人物で、意外な二人が登場します。一人は、勝海舟です。近所に住む旧幕臣ということで交流があったようですが、妻木の成功面での糸口では、勝の口利きもあったようです。もう一人は、森林太郎(作家の鴎外)です。既に技術官僚になっていた妻木がドイツに派遣された時、やはり留学に来ていた森と交流を持ったのが最初のようで、帰国後も交流は続いたようです。
話変わって、人気作家東野圭吾の小説に「麒麟の翼」というのがありますね。何年か前には、阿部寛主演で映画化もされています。筆者は、映画の方で知りました。この作品では、お江戸日本橋で有名であった、その日本橋のスパン中央部にある麒麟像が重要なキーワードになっているのですが、実は、この麒麟像を設計した人こそ、妻木頼黄だったということです。東氏の「日本橋の意匠」もそれを暗示していたのです。
ところで、読者の中には、建築家と橋の組み合わせを不可思議に感ずる方がおられませんでしょうか。橋は、土木の担当では、と思う人が多いと想像します。実は、これは西欧では不思議でも何でもないとのことです。相手にする構造物のタイプで土木、建築と分けるのは、実は日本独自とのことです。西欧では、構造物がなんであれ、構造設計は土木が受け持ち、意匠設計は建築が受け持つという棲み分けがあるそうです。すなわち、エンジニアリング面は土木であり、デザイン面は建築ということです。西欧の技術を輸入していた明治日本の建設界には、西欧のそういう風土も多分に入っており、明治の最晩年に改築された日本橋の例のようなことも珍しくなかったようです。今のような、建築にもエンジニアリングが強く求められるようになったのは、大正期以後のようです。おそらく、関東大震災の影響があったのは、想像に難くないですね。
それにしても、東野圭吾氏といい、東秀紀氏といい、工学部出の作家が出てきますよね。前者はたしか電気工学ですか。東氏と同じ建築出ということでは、森博嗣氏がおられるし、小説類ではないですが、大学や研究周辺の大変興味深い話を提供されて、多くの著書を持つ今野浩氏もおられます(第27話)。今野氏の専門は、線形計画法(LP)ですね。そういえば、昔、冶金学出身の推理小説作家で、高木彬光さんもいましたね。工学と文芸という関係は、一見あまり縁がないように見えますが、そうでもないようです。
最後に、本話のタイトルを「黎明期のアーキテクト」としているので、先に少し触れた妻木の二人の先輩、辰野金吾と片山東熊のエピソードを追記して終りとします。
まずは辰野金吾(1854-1919)。彼は、佐賀の唐津藩の下級武士の家の生まれで、明治初期の廃藩置県前、これからは洋学が必要ということで、藩が講師に招いた後のダルマ宰相高橋是清に英語を学ぶという幸運にあずかります。高橋との縁で、上京後、後に工部大学校を経て東京大学工学部となる工学寮に入学します。工部大学校では1期生でありました。専門課程に進む段階で、当初、造船を希望していたところ、工部大学校には造船部門は無くて、土木を目指したようですが、「君の成績では駄目だ」といわれ、造家(今の建築)に進んだそうです。江戸時代からの傾向だったのですが、当時の日本では、建築は土木より一段下に見られていたようです。したがって、土木は希望者も多く難関部門だったようです-今の時代では逆なのではないでしょうか。しかし、造家に進んだ後の辰野は、猛勉強をして造家学科を首席で卒業し、おかげで英国留学の栄誉を勝ち取るのです。
後年の辰野金吾といえば、東京帝国大学の教授や建築学会の会長を長く務めるなど、建築界の第一人者の存在であったことは、周知の事実です。生前、今で言う、東京駅、日本銀行、国会議事堂の3建築物を手がけてみたいと周囲の人間に語っていたようですが、国会議事堂までは彼の生前では実現できませんでした。なお、東秀紀氏の作品に、「東京駅の建築家 辰野金吾」というのがあります。
次に、片山東熊(1853-1917)です。彼は、辰野同様、工部大学校・造家学科第1期生です。片山は、まるで中世のヨーロッパの宮廷画家を思わすような、宮内省に籍を置いた宮廷建築家という異色の存在です。赤坂璃宮や先にも挙げました奈良国立博物館、京都国立博物館というような傑作があります。建築物の世界には疎いが、歴史好きである筆者には、片山東熊が持つエピソードの方が興味深いので、こちらを紹介してみます。
そのエピソードとは、彼が長州出身というところから来ています。実は、高杉晋作が創設した、あの奇兵隊に兄とともに兄弟で入隊した経歴を持っていたのです。奇兵隊出の建築家というだけでも充分異色の存在に思います。
明治5年(1872)、山城屋事件というまだ幼い明治政府を揺るがす事件がありました。明治に入って山城屋和助と改名して貿易商をしていた奇兵隊出身の人物がいました。昔のよしみで、元奇兵隊軍監で陸軍の要職にあった山県有朋に近づき、陸軍の金庫に眠っていた大金の借用を申し出るのです。別に、和助がこの金を着服したわけでもないし、山県が収賄したわけでもないのですが、結局和助の店が金の運用で失敗して破綻してしまいます。破綻時、和助はパリに遊んでいて、その派手な行動に不審を持って注視していた司法畑の人間もいて、事件は発覚します。帰国した和助は、陸軍に呼び出されると、官舎内で割腹自殺を遂げます。この公金流用事件に、既に始まっていた薩長間の競争もからみ、薩摩系の軍人たちから山県は追い詰められ、陸軍大輔の要職は辞任に至ります。まさに政治生命の断たれる山県だったのですが、西郷隆盛に助けられて、直ぐに陸軍へ復職することになります。
事件の顛末時、陸軍側の直接の責任者として、会計官の人間が詰め腹を切らされたのですが、その人間こそ、片山東熊の兄だったというのです。そのことに恩を感じた山県は、終生弟の東熊をかわいがったというのです。その真偽はともかく、そういう話が噂されたというのは事実だったようです。しかし、これに興味を持った筆者は、いろいろ調べたところ、たしかに詰め腹を切らされた人間はいたのですが、どうも片山の兄ではなかったようです。噂は、噂でしかなかったようでした。
歴史の語り部司馬遼太郎さんには、庭園造りと人事操作にしか才能がなかったと酷評された軍閥の元勲山県有朋ですが、一芸を持つ人間を可愛がるという一面を持っていたように筆者は感じているのですが、どうでしょうか。片山東熊もそうですが、土木の古市公威しかり、軍医の森林太郎しかりです。
2015年12月記