第62話 負の固有値
まず、下図を見ていただきたい。これは、先端に下向き鉛直方向荷重を掛けた片持ち箱桁に対して、有限要素法(FEM)を利用した座屈解析の結果である。座屈強度は固有値解析を使用して求めている。この図はその時の座屈モードを現わしており、支持部付近で局部座屈が生じていることが分かる。
この座屈モード図を見て何も思わない人は、もう一度構造力学の勉強を考えた方がいいですぞ。引張側のフランジにどうして座屈が生じているのか、疑問を持ってもらわないといけない。図の載荷条件で局部座屈が生じるならば、下側の圧縮側フランジこそ座屈するはずである。種明かしすれば、この座屈解析での固有値(座屈係数)が負値になっているからである。
FEMで固有値解析が登場する代表的な場面と言えば、固有振動数を求める場合と(線形)座屈強度を求める場合である。前者で求まる固有値が正値1 に限られているのに対して、後者は負値にも物理的に意味がある。座屈係数が負になるということは、とりもなおさず載荷方向が逆向きで最小固有値が存在していることを固有値計算の数理が示しているのである。したがって、図62-1のケースでは、同じ荷重モードでも向きを反転した鉛直上向きの載荷条件での座屈モードを示していたわけである。これで、上部フランジにおいて局部座屈の生じた理由が納得できるというものだ。
実のところを言えば、図62-1の座屈解析での第二固有値は最小固有値と絶対値ではほとんど同じの値となっている(理論的には同一値)。それは、構造が対称系になっているための結果である。この場合、物理的には、座屈係数に最小固有値、第二固有値どちらが採用されてもよかったのである。本モデルで最小固有値に負値が採用されたのは、数値計算上の数値誤差による偶然の結果なのである。
通常、構造解析における固有値問題では、必要となる固有値というのは、最小固有値からN個(N≪全自由度数)である。固有振動数の場合しかり、特に座屈解析ではN=1で大きな意味がある。
一方、構造解析で現れる多次元行列を対象とする固有値の数値解析では、全ての固有値を求める手法は不適当であり、通常は最小固有値(あるいは最大固有値)から必要個数求める数値解析が採用される。繰返し法による固有値アルゴリズムは全てそうである。構造解析からの要求とのなじみの良さから、市販FEMソルバーの固有値解析では、サブスペース法、ランチョス法といった繰返し法アルゴリズムが採用されているはずだ。
さて、図62-1のモデルに戻る。上で言ったように、構造が対称性を持つゆえの数値計算の気まぐれで、固有値が正負に揺れる不安定さは、どちらも物理的には同一現象を示しているので許容できるとして、そうはいかない困った場合がある。
図62-1モデルの設計者が上向き荷重が絶対に掛からないと想定した場合、局部座屈の心配をして圧縮側フランジ(図では下側)に対して板厚を増やすか、あるいは補剛材を付加して補強するのが普通である。この場合に固有値解析を実行すると、確実に負の最小固有値が出てくる。なんとなれば、下側フランジを補強したことにより、相対的に上側フランジが弱い構造となり、そこで座屈することを示すのが負の最小固有値(座屈係数)であるからである。すなわち固有値解析は上向きの座屈荷重を教えるのである。
しかし、設計者にとって、上向きの座屈荷重は不要であり、下向きの座屈荷重、すなわち正の固有値こそが必要なのである。この場合の対策としては、N>1の複数固有値を要求した固有値解析を実行することである。結果を見て、正の最小固有値を見つけることができれば、それが求める座屈係数である。ただし、結果の中に正の固有値が皆無であれば、さらにNを増やして再実行する必要がある。後に述べる別法でもそうであるが、正負の固有値が混ざる固有値解析では、正の最小固有値が何番目の固有値であるかなんて前もって分からないので、試行錯誤が必要となる。一般にNが増大するほど固有値解析は計算時間がかかるので、この方法の欠点は計算コスト面と言えるかもしれない。
上で言った正の最小固有値を求める対策方法は、市販ソルバーのユーザーでは可能のはずだが、個人的に開発されたソルバーでは、座屈解析での固有値の数値解析に“逆べき乗法(Inverse Power Method)”を採用していることがあるかもしれない。逆べき乗法はアルゴリズムが簡単であり、精度も高いということで昔から定評のある固有値計算アルゴリズムである。ただ、求まる固有値が最小固有値の1個しか求まらない。しかも、絶対値で最小の値である。したがって、絶対値で最小固有値が負値のケースでは、逆べき乗法では正の最小固有値が求まらないことになる。
ここで登場するのが“原点移動(シフト)”というテクニックである。固有値解析に原点移動という用語はしっくりこないかもしれないが、行列の固有値問題における数学の原点に立ち戻ればよく理解できる。行列Aの固有値をλとすれば、その値は行列式|A|を展開したときの固有多項式 f(λ)=0 の根である。これをイメージしたのが図62-2である。
図62-1での計算では、|λ1|≒|λ2|であり、たまたま微小の絶対値差でλ1の方が小さかっただけである。ところが、下側フランジを補強した場合では、明らかに
|λ1|<|λ2|となり、正の最小固有値が求まらない。そこで、図62-2のような、
|λ1|>|λ2|となるように原点を移動してから固有値計算すれば都合いいわけである。この数学的裏付けは次のとおりである。まず、話を簡単にするため、標準固有値問題で解説すると、その式は次の通りである。
この式の両辺に、cχを加算すれば次のとおりとなる。
上式の固有値問題は、元の行列Aの代わりに行列(A+cI)の固有値問題を扱うことを物語っている。固有ベクトルχは共通で、固有値はcだけずれる性質を利用するのである。
この手法での難点は、第二固有値も負値であるような場合である。この場合、シフト量をいくらに設定すればいいのか判断に迷うことになる。しかも第三固有値が正値である保証もないので、最小固有値から負値の固有値が続く場合は、試行錯誤の連続を覚悟せねばならない。なお、原点移動はなにも逆べき乗法の専売特許ではなく、固有値問題全般に適用できる手法であることを断わっておく。
以下は、桁の座屈問題についての余談である。
図62-1にある桁のスレンダー比程度では、座屈解析を実施すれば局部座屈が先行することが多い。ところが、スパンが伸びて桁のスレンダー比が大きくなってくると、桁全体が横曲げとねじれを伴った全体座屈が先行してくる。いわゆる“横倒れ座屈”という現象である(図62-3)。
橋梁構造のようなスレンダーな桁構造を設計する場合、この横倒れ座屈の検討が重要となる。局部座屈が発生しても即座に構造物が崩壊することは考えにくいが、全体座屈が発生すると一挙に構造全体が崩壊する恐れがあるからである。
筆者が構造解析の仕事で、生涯忘れられないのが、横倒れ座屈の計算である。社会人になりたての頃、施工中の橋が崩壊して工事者に死人が出た事故があった。この事故の構造解析面での検討業務のお鉢が筆者にまわってきた。当時は、今のように市販ソルバーが気楽に利用できる時代でもないし、大規模なFEM解析ができるコンピューターもなかった。そこで、曲げねじれ理論を応用したFEM座屈解析のプログラムを開発して計算した次第である。
結果を見て驚いた。計算結果が現場での崩壊時状況とよく一致していたのである。局部座屈だと、こうはいかないはずである。固有値計算で実施する線形座屈は弾性座屈なので、実際には材料が塑性域に入って生じることが多い座屈現象までは追えないのである。
柱状構造物でのオイラー座屈や桁の横倒れ座屈の場合のように、材料が弾性域でも生じるスレンダー構造の線形座屈解析はよく実情を反映するものである。
2009年梅雨の候記
- 剛体変形モードまで含めるとゼロ値もあり、さらに減衰まで考慮する固有値解析では負値や複素数が出現するが、標準の振動解析では正値実数だけである。 [↩]