FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第18話 古典物理界の巨人

西欧の人たちの間では、「古今東西、最も偉大な科学者は誰」、と尋ねられたら、ニュートン、アインシュタインと3本の指を折る中で、マクスウェルの名が挙げられると聞きます。17世紀を代表してニュートンが、20世紀を代表してアインシュタインが、そして19世紀を代表する大物理学者マクスウェルが挙げられるのは、少しでもサイエンスを知る人には、異存はないところでしょうか。4人目を揃えるとなれば、18世紀から持ってきたいところですが、ニュートンの威光が18世紀にまで及んでいたのか、これがなかなか難しいところです。筆者の個人的感想では、数学者寄りではありますが、オイラーを挙げたいものです。

ところで、ニュートンが85歳、アインシュタインが76歳の人生だったのに対して、この19世紀の大天才は50歳を迎えることができませんでした。ときおり見かけるひげもじゃ顔のマクスウェルの肖像写真からは想像もできないことですが、48歳というやや短命な生涯でした。癌を患った最期でした。

ジェイムズ・クラーク・マクスウェル(J.M.Maxwell:英1831-1879)が19世紀に生まれたということには、科学史的には大きな意味がありました。古典物理学の終点時期に、彼が古典物理学を集大成した感があり、さらに次世代に始まる現代物理学への橋渡しの役目も果たしたからです。さらに言えば、彼が生まれた年は、後年彼に大いなる影響を与えたファラデーが電磁誘導を発見した年でもあったのです。

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われわれが、高校物理で習う中で、古典物理の範疇を分野別で言えば、まず力学に始まり、光学、音響学、熱学、電気学、そして電磁気学および電磁波でしょうか(マクスウェルに関して言えば、気体運動論も)。もっとも、これらをミクロ物理で解釈すれば現代物理学になってしまうでしょうが、マクロ物理で解釈する範囲では異論は出ないでしょうか。そして、この中の1分野を例外として、全ての分野を興味の的にし、その類稀なる才能で古典物理を完成域に高める貢献をしたのがマクスウェルだったのです。その例外というのは音響学のことです。波動学で括れば、光と同分野の音であるのに、あんなに光に関心を持ったマクスウェルが、どういうわけか音には興味がなかったみたいです。

マクスウェルの最初の創作は、幾何学分野でしたが、物理面でのデビューは、“弾性個体の平衡について”という力学部門でした。ここでは、いくつかの具体的問題を俎板に上げ、理論的追求したと同時に、後に“光弾性学”とよばれる光の偏光を利用した実験弾性学も創作して、これを利用しています。この時、彼は19歳だったといいます。ため息が出そうですが、それでもこれは彼の生涯における物理への功績でいえば、ほんの序の口でした。

このマクスウェルのことを知り、マクスウェルの存命中に英国留学の経験がある日本物理の黎明期の物理学者田中館愛橘をして、漢字を暗記することに血道を上げる日本の教育を嘆いて、漢字廃止論を唱えさせることになるのでした(“理系夜話”第12話参照)。

閑話休題。マクスウェルの生涯を眺めると、彼の先輩、友人たち多くに刺激されていることが分かります。彼は、学生としては、エディンバラ、ケンブリッジの二大学で学んでいますが、エディンバラでは、ブルースター(ブルースターの法則や万華鏡の発明で知られる)に影響を受け、あのハミルトンにまで出会う幸運もありました。彼の物理デビュー作“光弾性学”などは、ブルースターの光の偏光問題の話が源泉であったわけです。ケンブリッジでは、沈着冷静な先輩物理学者ストークスに生涯意見を求めることができる幸運がありました。

マクスウェルの交流人物を語るとき、上の人たち以外にも3人の人物を挙げないわけにはいきません。彼の頭から湧き出るアイデアに対して、生涯意見交換できた気の置けない二人の友人がいました。一人は、彼の少年時代からの友人テイト(“理系夜話”第50話参照)であり、もう一人は少し目上のトムソン(後のケルビン卿)でありました。残りの一人は、なんといっても、彼の人生最高の傑作となる電磁気学及び電磁波の存在予言へと導いた大先輩ファラデーであります。

結果から見れば、難解な数式を展開するマクスウェルなので、さぞマクスウェルは数学に強いと思われるでしょうし、事実そうだったのですが、何も全ての問題に最初から演繹的に数学を駆使して物理を追求した訳ではありません。彼の物理アプローチは、例えば電気の物理が流体力学に似たところがあること利用して考察を進めるという、いわゆるアナロジーを大事にしたようでした。また、ファラデーの実験物理の結果を理論物理に翻訳した場合も、まず力学モデルあるいは図解を立ててから始めたのでした。マクスウェルは抽象概念に没頭する数学者ではなく、あくまでも彼は物理学者だったのです。

しかし、マクスウェルの偉いのは、最初に立てた足場から、深淵な物理式が顔を出してくると、以後は、足場には拘泥されず、さも、それらが最初から無かったような態度で理論考察したようです。まるで、リニアモーターカーのようですね。リニアモーターカーも走行開始時期には車両走行ですよ。

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さて、大天才にも欠点があったことも紹介しておきましょう。あふれる創造力に対して、表現力の方は今ひとつだったようです。ケンブリッジ大学の卒業時、トライポス試験(“理系夜話”第46話参照)で主席をラウスに取られ次席になってしまったのもそれが原因だったといわれています。また有名な電磁気学でのマクスウェル方程式も、今ではヘビサイド(“有限要素法よもやま話”第40話参照)、ヘルツにより簡潔な4つの方程式にまとめられていますが、マクスウェルが創作したときは余計な式が多く含まれていたそうです。これらを聞けば、表現力云々も分かる気がしますね。

最後に、マクスウェルの人物像の一面を語るエピソードとして、既に拙著エッセイ集で記載してあることですが、彼の紹介で世に脚光を浴びることになる人物二人のことを改めてあげておきます。

一人は、やはり同国の奇人キャベンディッシュであり、もう一人はこの当時では珍しい存在のアメリカ人の物理学者ギブスです(“有限要素法よもやま話”第49話参照)。前者はやはり“理系夜話”第6話でやや詳細に記載してありますので、そちらを参照していただくことにして、ここでは、後者のギブスのことを少し追記しておきます。

マクスウェル晩年の1876年、ロンドンでヴィクトリア女王を迎えて、科学博覧会が開催されたそうです。この時の講演で、壇上に立ったマクスウェルは話を始めました。ギブスのことを。聴衆者は、一体誰のことをマクスウェルが話しているのか、知る人は誰もいませんでした。

ギブスの熱力学や、後年そう呼ばれる統計力学に関する独創性を知るのは、ヨーロッパ物理界でもマクスウェル一人だったようです。全く虚栄心を持たないギブスは、自分の論文を後進国アメリカのしかもローカルな紀要だけにしか掲載しなかったゆえ、世界では全く無名の物理学者だったのです。

ギブスの論文を読んだマクスウェルは、熱力学に対するそれまでの自分の解釈が間違っていることを認め、その告白を友人テイトにも話しています。マクスウェルもギブス同様、虚栄心には無縁だった人でした。

2012年2月記

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読者からの寄せられたコメント

  1. 池末成明 より:

    アメリカのどこの大学だったか、アメリカに物理学者を英国から招聘しようとしたとき、マックスウェルだったと思いますが、「ギブスがいるではないか」と答えたそうです。でもアメリカはギブスが誰だっかわからなかったようですね。

    • Yoshiaki Harada より:

      エッセイのどこかで書いたように記憶するのですが、アメリカが科学大国になったのは、先の大戦前後に欧州から数学者、科学者の多くが移住した結果ですね。かの有名なドイツの数学者F.クラインがアメリカから講演依頼された渡米後の談話が面白いですね。今では考えられない内容で、「アメリカは、実用一点張りで、全く理論的志向が育っていない」と。こんな時代背景を持つアメリカで、さらに地味な性格を持ち控えめなギブスが知られているはずはなかったのでしょうね。

  2. 池末成明 より:

    マクスウェルはギブスが投稿していたローカルな論文まで読んでいたんですね。
    ネイチャだったと思いますが、マックスウェルは、産官学を束ねる役割も果たし、通信ケーブルの改善に貢献したそうで、このことが大英帝国を支えるインフラになったのだと思います。

    • Yoshiaki Harada より:

      海底ケーブルの敷設では、かのケルヴィンとその弟子ユーイングも貢献していますね。

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