第13話 坂の上の雲を見つめた一人
筆者が学校の教科書で知った日本史上の出来事で一番古い記憶は、小学3年生か4年生の国語の教科書に載っていた日本人による初の太平洋横断の快挙です。怒涛に呑まれそうな咸臨丸の挿絵があったことを今もおぼろげながら記憶しています。日米修好通商条約の批准のため、遣米使節が乗ったポーハタン号の随行船が咸臨丸でした。
咸臨丸の航海には、いろいろ裏話があったことをずっと後年になって知りました。艦長の勝海舟がひどい船酔いでずっと部屋にこもりきりであったこと、測量任務の自船が破船したため帰国の船便を待っていたアメリカ海軍の人たちが渡りに船と同乗していて、実は咸臨丸の操艦には大いに助っ人になっていたことなどなど、言い出すときりがないぐらいです。
ところで、この時の咸臨丸には、艦長の勝を初め、航海長に小野友五郎(“理系夜話”第48話参照)、通訳としてジョン万次郎、それにどういう訳か福沢諭吉、と結構著名人が乗船していました。そして、彼らの統括責任者として、軍艦奉行の木村喜毅という人が乗船しています。後年、木村芥舟(ややこしいですが、こちらも、かいしゅうです)と呼ばれた人です。門閥人事の非難標的者として、勝からその一人に指摘された一人ですが、温厚で、非常に誠実な人でした。その人柄の良さについては、さすがに勝も一目置いていたようです。咸臨丸の渡米時には、何かと金が必要だろうと予想して大金の私財を提供しているぐらいです。そうそう、福沢が乗船できたのも、つてを頼って木村喜毅の下僕としてもらった経緯があった訳でした。明治の御代になっても、二君に仕えずと仕官を断り、隠退生活を送った人でした。
木村芥舟自身は、咸臨丸の快挙のときぐらいしか、われわれの目に止まることはないのですが、彼の子息の方は、専門の歴史家でなくても、われわれ一般人が目にする書籍でわりと目にします。その名を木村駿吉(しゅんきち)と言いました。
木村駿吉(1866-1938)は慶応2年の生まれで、明治14年(1881)に大学予備門に入学しています。ですから明治17年入学組の夏目漱石や正岡子規より少し先輩に当たります。彼もやはり、“坂の上の雲”の時代の一人でした。学歴は明治中期の典型的なエリートコースを歩んでおり、東京大学では、理学部・物理を専攻しています。社会へ出てからの駿吉の人生はまるで3幕の舞台に登場するような人生劇場でした。第1幕がクリスチャンとして、第2幕が数学者、物理学者として、最後の第3幕が海軍技師としての人生です。以下、順を追って彼の人生を紹介してみます。
まず第1幕。明治20年代の初期、木村駿吉は第一高等中学(大学予備門の後身、一高の前身)の教員をしており、また当時有名なキリスト教者であった植村正久から洗礼を受けたクリスチャンでもありました。クリスチャンの活動から、内村鑑三を知り、内村を一高の教職に推薦したのはどうやら駿吉だったみたいです。これが、後に起きる明治時代の有名な思想事件である“内村鑑三の不敬事件”に駿吉が連座する発端でありました。歴史の細部に関心がない若い読者には、不敬事件と言われてもピンとこない人もおられるでしょうから、少し説明しておきます。
明治24年1月9日、一高では前年に発布された教育勅語の奉読式がありました。全員が礼拝する中、内村鑑三は少し頭を下げただけでした。これが、天皇への不敬行為であるとして、巷を騒がす大事件となったのです。もちろん、内村は学校を追放されました。ところで、木村駿吉の方はというと、この日彼は欠席していて、不敬事件には直接関係していません。後日内村の弁明文を出しことなどから同類人物とみなされ、駿吉も一高を退職させられたのです。
この事件、先の戦争前に青春を送った人たちにしか、ピンとこない事件でしょうか。もはや現代では理解しにくいことですが、当時の時代背景を少しでも感じる例としてもう一つの事件もあげておきます。明治24年生まれの作家に久米正雄という人がいました。若い頃は夏目漱石の門下生の一人でした。この人、漱石の令嬢と恋愛事件を起こしたことで、文壇史に名を残した作家ですが、子ども時代にも衝撃的な出来事に出くわしています。彼の父親が、今の長野県・上田市で小学校の校長をしていた時のことです。ある日、校舎から火を出してしまい、御真影を消失してしまったのです。御真影とは、誰の写真のことか若い読者もお分かりですよね。自責の念に駆られた久米正雄の父親は自刃してしまったのです。皇国日本を象徴する一齣です。明るくて建設的な“坂の上の雲”の時代も、その裏にはこういう時代背景があったことを知る必要もあるでしょうか。
さて、第2幕です。一高を追放された木村駿吉は、しばらく他校の教職を勤めた後、ハーバード大学に後にはエール大学に留学します。この時代が、彼の数理物理学者としての真骨頂の時代ではなかったでしょうか。エール大学では、統計力学、熱力学そしてベクトル解析で有名な、あのギブス教授(“有限要素法よもやま話”第48話参照)に数学を教わるという贅沢を味わっています。
筆者は以前、“理系夜話”の第50話のところで、英国の生んだ天才ハミルトンが創始した数学、“四元数“の教祖としてやはり同国の数学者テイトのことを紹介したことがありますが、日本での教祖は、どうやら木村駿吉らしいのです。アメリカからの帰国後、仙台の二高で物理を教えることになるのですが、この時代には、駿吉は四元数にはまり込んでいて、四元数協会なるものの設立を全世界に向けて呼びかけているのです。しかし、四元数そのものが自分の子どもとも言えるベクトルに負けてしまった歴史があるので、四元数協会もうまくいかなかったのでしょうか。
どうやら、この二高時代から研究を始めていたらしいのですが、木村駿吉の後半生を埋め尽くしたものが無線通信の技術です。これこそ、日本の科学史に彼の名を刻んだキーだったのです。明治30年当時には、駿吉は無線通信について研究に着手していたとのことですが、その数年前にイタリアの電機工学者マルコーニが無線通信に成功していたようです。
おそらく、海軍からの誘いがあったのか、明治33年(1900)に木村駿吉は海軍に転じています。ロシアのバルチック艦隊との死闘を繰り広げた日本海海戦があった明治38年まであと5年という時期でした。
ここからが最終の第三幕です。無線通信に非常に関心を寄せていた海軍上層部では、当初マルコーニ会社から無線通信の技術を購入するつもりでいましたが、莫大な対価を求められ交渉が不調に終り、国産化に方針変更になった経緯があります。
研究といっても、その実体は、木造軍艦内の物置小屋で始まり、わずかな予算で苦労したみたいです。それに、当時の世界にあっては、電気分野では、低周波領域が中心で高周波領域までは誰も関心を持っていなかったため、相談相手もほとんどいなかったようです。マルコーニにしてからが、母国イタリアでは相手にしてもらえないため、英国へ渡って技術を売り込んだ経緯があります。
どうにかこうにか、国産無線通信に成功し、各艦船に搭載できたことが、世界の海戦史上稀なる完璧な一方的勝利に終った日本海海戦の勝利の一因と言われています。バルチック艦隊がどこに現れるか、虎視眈々とうかがっていた日本海軍というより日本国民へ、信濃丸からのあの有名な「敵艦見ゆ」の発信がなされた劇的なドラマの裏方には、木村駿吉をリーダーとする海軍の技師たちがいたのです。司馬遼太郎の“坂の上の雲”の中でも、木村駿吉の名が出てきます。名参謀秋山真之をして、「司令部に兵器があるとすれば、無線通信と鉛筆とコンパスだ」と言わしめたほどの無線通信の活躍でした。戦いの後、押収したバルチック艦隊の艦船内を調べたら、無線装置を装備していたというのにそれを活用した形跡がなかったようです。どうもロシア側では無線通信を重視しなかった様子でした。負けるべくして負けたバルチック艦隊だったのでしょうか。
木村駿吉は昭和13年、72際で亡くなっていますが、その人生を眺めると、まるで一人三役をこなしたような人生劇場でした。
2011年6月記