FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第9話 生ける器械

文久3年(1863)当時の長州藩といえば、攘夷思想の書生論で煮えたぎった藩に見えますが、どっこいこの藩はなかなかくせものでした。周布政之助、高杉晋作といった一級の人たちの中では、単純な攘夷論で事が済む訳がない思いがあり、すでに西欧の文明、技術の輸入に眼が向いていました。そこで、表向き攘夷活動に奮闘していたさなか、英国ロンドンに派遣されたのが、次の5人の密航留学生でした。

  • 井上聞多 天保 6年生(1835-1915) 28歳 明治期の元勲の一人井上馨その人
  • 遠藤謹助 天保 7年生(1836-1893) 27歳 第二代大阪造幣局長
  • 山尾庸三 天保 8年生(1837-1917) 26歳 日本工業教育の父
  • 伊藤俊輔 天保12年生(1841-1909) 22歳 初代総理大臣伊藤博文その人
  • 野村弥吉 天保14年生(1843-1910) 20歳 後の井上勝、日本鉄道の父

留学目的は、一応海軍技術の習得という軍事目的でしたが、実質“生ける器械”として帰ってくることを期待されていたため、ロンドン大学ユニバーシティカレッジで最初に学んだのが化学であり、おいおい土木、鉱業、鉄道、造船と、いわゆる工学方面を渡り歩いています。

昨秋(2010年)、朝日新聞紙面にこの大学の名が出ていました。2009年度の世界の大学ランキングで、1位ハーバード大学、2位ケンブリッジ大学、3位エール大学に続いて4位に堂々とユニバーシティカレッジロンドン大学がランキングされていました。彼らを嚆矢として、明治時代前半にかけて多くの留学生がこの大学にやっかいになっていますね。

彼ら5人がロンドンに滞在し始めたとき、地元新聞紙には“CHOSYU FIVE”という名称で紹介されたとのことです。何年か前、この“長州ファイブ”というタイトルで、5人の留学顛末が映画になっていたことを思い出しましたので、筆者は本稿を書くにあたって、レンタルDVDを借りてきて映画鑑賞をしました。映画の中では、渡航するまでの主役が井上(馨)で、渡英後は山尾が主役扱いになっていました。山尾のことは、後で話しますが、密航にあたっての、5人分の渡航費5千両という大金の金策には、井上が彼らしい活躍を見せた歴史がありました。

せっかくだから、ここでちょっと余談として、井上馨について話してみたいと思います。この人、日本史の教科書では、明治の元勲の一人として紹介されていますが、一般には歴史上の悪人イメージを持たれていますね。ずっと昔、作家海音寺潮五郎さんの評伝に“惡人列傳”という好著がありました。この中では、日本史上、あまり評判の芳しくない24人が俎上に載せられていたのですが、そのしんがりに井上馨の名があります。事程左様に、明治史上では井上馨には悪のイメージが定着しています。それは、彼が、民間会社との癒着を持った金権政治家だったことが大きな理由だと思います。清廉潔白な西郷隆盛からは、“三井の番頭さん”と揶揄されたことはちょっと有名な話です。さらに、悪評価に拍車をかけたのが、例の鹿鳴館建設を初めとする欧化政策の失敗です。

悪評価の理由は全て、功なり名をあげた明治維新以後の彼の振る舞いからきています。ところが、幕末の聞多時代には、痛快な活躍振りを発揮しているのです。「困った時の聞多頼み」とか、「死中に活を求める」といった表現がぴったりの井上聞多だったのです。先の渡航費用の金策なども彼のアイデアで乗り越えたものなのです。明治維新前後で、人物評価の振幅が大きい人としては西郷隆盛が有名でしょうが、井上馨もその一人だと筆者は思います。もし、幕末時点で人生を終えていたら(実際、過激な攘夷派から斬られほとんど死にかけた経歴もありました)、坂本龍馬、高杉晋作らの仲間入りをして現在の歴女からはファンも生まれたこと、請け合いでしょう。

 

さて、本題に戻ります。

4ヶ月以上もかけて、日本からはるばるロンドンまできた長州ファイブですが、半年ほどで伊藤、井上(馨)の二人は急遽、日本へ帰国することになります。“タイムズ”紙上で、なんと彼らの故郷長州が危機にさらされていることを知ったからです。馬関戦争の報復行為で、英米仏蘭四カ国連合艦隊による下関砲台への攻撃のニュースを知ったのです。周囲の反対を押し切っての伊藤、井上(馨)の帰国だったのですが、この時の帰国組、残留組の分かれが実は象徴的な分岐点でした。後の歴史が示しているように、帰国組は明治を代表する政治家となり、残留組は学んだ西欧の近代技術を活かして、帰国後徹底したテクノクラートへの道に進むことになったのです。すなわち、この時の別れは政治家と官僚への分岐点だったわけなのです。

残留組には、ほどなくして、奇しくも長州ファイブに遅れて出国した15人の薩摩藩留学生と異国の地で出会うという奇遇があり、両藩士は交流を持つことになります。小さな薩長同盟が母国に先んじてロンドンで成立していたことになります。15人の中には、我々のよく知る人物として、悲運の初代文部大臣森有礼がいました。また、彼らの引率者として、松木弘安(後の外務卿寺島宗則)や五代友厚も同行していました。

一つ追加話をしておきますと、明治後、長州ファイブの方は、各人が各分野で成功した人生を送ることになりますが、薩摩の15人の方は、明暗こもごもの人生でありました。

ここから、残った長州の3 人各人のその後の足取りについて記しておきます。

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元々、この留学期間は5 年という約束だったのですが、遠藤謹助は満期前に帰国しています。ロンドン滞在中に胸を患ったこともあるのですが、他の二人に比べて学力面で劣っていたからだとも言われています。彼は5 人の中では一番目立たなかった存在だったのですが、明治の御代では大坂にあった造幣局の局長を務めています。遠藤は、後世の人間にいいことを残しています。今も続く、春の“造幣局の通りぬけ”のことです。あの桜並木は、役人だけが楽しむべきでなく広く市民にも公開すべき、と遠藤局長が公開を実施したとのことです。

次に野村(以後、井上勝で呼ぶ)です。彼は、山尾と同じく、5 年の満期を迎えて、明治元年(1868)に帰国しています。しばらく、山尾が奮闘してつくられた工部省内の各部門に属していましたが、やがて鉄道専門のテクノクラートになっていきます。あの、新橋、横浜間の陸蒸気時代から長く鉄道に携わり、初代鉄道頭、鉄道局長官を歴任し、鉄道一筋の人生を歩んだことで、“鉄道の父”と呼ばれていることは鉄道ファンには広く知られていることでしょう。

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井上(勝)の持論は、鉄道の外人依存からの脱却と国有化でありました。後者の点では、鉄道利権を貪っていた議員、実業家の反対運動で、四面楚歌の中、明治26年、鉄道局長官を辞任しています。それでも、井上の鉄道マン人生は終らず、51歳の時、今度は大阪で汽車製造会社を起こしています。軌道から車両に移ったわけです。しかし、井上にはかたくなな古武士面のところもあり、官員時代とは違って民間会社での経営者としてはちょっと問題もあったようです。68歳の時、周囲の反対を押し切って視察に出向いたロンドンの地で客死することになります。青春の一時期を過ごした遠い異国の地で人生を終えたことになります。

最後に、山尾庸三のことです。本当の意味で、“生ける器械”としての使命を果たしたのは、井上(勝)と山尾でしょうか。しかし、山尾には少し分からないところがあります。幕末の尊皇攘夷の志士時代、高杉、井上(馨)、伊藤らと行動をともにして、幕末史上有名な英国公使館焼き討ち事件にも参加していますし、伊藤と一緒にある幕府側の人間(学者)の暗殺にも関わっています。伊藤博文と刺殺の組み合わせは考えにくいのですが、どうも彼の人生で一人だけ暗殺の実行をしているみたいなのです。

この志士としての経歴と、洋行帰りの学識をもってすれば、明治政府内では伊藤級の政治家になっていてもおかしくないはずなのですが、現実は高校の日本史教科書には掲載されてない人物となっています。先の政治家と官僚の分岐点での話ですが、山尾の性格には政治家には不向きな性格があったのでしょう。誠実な性格と使命感あふれるテクノクラートへの性向が彼を政治家にさせなかったのでしょう。山尾の人間性の良さは、ロンドンで出会った薩摩藩士の日記中にも記載されているようです。

山尾のまじめさと使命感という点は、英国滞在中にも現れています。留学中の後半、彼は北部のグラスゴーへ移っています。グラスゴーの造船所で実地訓練を積みながら、夜は夜間学校で勉学に励んでいたのです。この学校は、アンダーソン・カレッジというらしいのですが、図らずも後年、彼と因縁を持つヘンリー・ダイアリー(“理系夜話”第22話)も当校の出身だったのです。

ところで、このグラスゴー行きでは、一つの温かいエピソードがあります。その時期、騒乱が続く国元からは金の仕送りが途絶えがちで、山尾にはグラスゴーまでの旅費もないありさまでした。そこで、潤沢に金を持つ薩摩藩留学生グループに借金の相談を持ちかけます。藩からの公金には手を出せないが、有志一同のカンパならいいだろう、ということで薩摩藩留学生たちは金を出し合ったそうです。山尾は生涯、この時の恩を忘れなかったそうです。

帰国後の山尾には、明治初期に大きな実績があります。明治政府がいかに殖産興業を謳っても、それを担う専門の政府機関がありません。その必要性から、山尾は工部省の設置を目指していろいろ画策しているのです。このあたりは、政治家としての動きが山尾に見られます。ところが、時の権力者の一人、大久保利通が洋行前でもあり、時期尚早として否定的な考えでした。結局、明治3年には工部省が創設されるのですが、これには長閥のトップ木戸孝允がまだ元気で、支援してくれたことが大きかったようです。工部省は明治18年には廃省されるのですが、その間、伊藤に続いて山尾も工部卿に就任しています。

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山尾の工学方面への貢献はこれに留まりません。日本人のエンジニアを育てるため、専門の工学教育機関を創設するべく、工部大学校なるものを開校させるのです。この尽力で、山尾は“工業教育の父”と呼ばれています。工部大学校の教授陣にヘンリー・ダイアー他多くのスコットランド人を招いたことは、既に“理系夜話”の第22話“蘭均”で紹介済みです。この学校が今の東京大学工学部の源流の一つでもあります。ちなみに、開設時の初代校長は、戊辰の箱館戦争で幕府側に立って陸軍を指揮した大鳥圭介でした。

工部省の廃省以後の山尾の動きに目立ったものはなく、一官僚としての後半生を全うすることになりますが、彼の誠実な人格を物語る出来事を紹介して、本エッセイの終わりとします。

グラスゴー時代、聾唖者たちの就業する姿を見て、障害者教育の必要性を深く心に刻んでいた彼は(映画の中では、聾唖の美人女性とのロマンスも絡めていました)、盲唖学校の設立まで実行するのです。晩年には、日本聾唖協会の総裁まで務めています。

2011年1月記

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