第4話 古都のミニ風景1
筆者の会社人生は転勤の連続でした。所帯を持ってからでも10回の引っ越しを経験しています。大阪市をスタートに、浦和市(現さいたま市)、長野市、大津市、京都市と住まいを変遷してきました。今の京都市がおそらく終焉の地になるのではと思います。
筆者はよく京都市内を散策しますが、さすが古都だけあって、ときおり思いがけない場所を発見することができます。これから4回は、筆者が発見した古都京都のミニ風景を紹介してみたいと思います。ただし、嵐山や、金閣寺/銀閣寺あるいは清水寺といった誰でも知っているメジャーな所ではなく、おそらく観光ガイドブックには載っていないような隠れた存在の場所を紹介してみたいと思います。
最初は、筆者の自宅近くの場所の話です。読者もご存じだと思いますが、京都市内の街路は昔から碁盤目状になったままです。南北に走る街路、東西に走る街路すべてに由緒ある名前が付けられています。
その中の一つに、釜座(かまんざ)通りという南北に走る通りがあります。この通りが、丸太町通りと交差する地点からやや南の位置(これを京都では下がると呼びます)に、“究理堂”と書いた大きな看板がかかげられている家屋があります。
この地は、江戸時代の中期から後期にかけて、上方で活躍した小石元俊(1743-1809)という医師が土地を購入し、究理堂という私塾を設立した所なのです。元俊以後、代々の子孫が婦人科系の医業を営み、現在まで続いているという驚くほど長い歴史を持つ医院の場所でもあります。
元俊は、大坂蘭学の祖とも言われていますが、それは、彼自身、江戸の杉田玄白派との交流を持って蘭医学の見識を深めたこともありますが、それよりも、大坂にいた橋本宗吉(1763-1836)や中天游(1783-1835)という若き蘭学者への啓蒙者的立場にあったことも大きかったからだと思います。橋本宗吉は傘職人からの転向で、わずか4ヵ月間にオランダ語4万語を記憶したという異能の人物です。中天游は、適塾で有名な緒方洪庵(1810-1863)の若き頃の師匠でありました。
ところで、元俊がどこまで意識して“究理”という言葉を使ったかは知る由もありませんが、同音で類似語の“窮理”は、今の物理の意味です。窮理という言葉は明治の初めまで使用されており、福沢諭吉が著した、日本最初の科学入門書にも“訓蒙窮理図解”というタイトルがあります。
2010年5月記