第51話 小浜今昔物語
越前若狭湾にある小浜市と言えば、人口3万人ほどの小さな町です。寺や仏像が多いので“海のある奈良”とも呼ばれているらしいです。しかし、近くの関西からでも車でないとやや行きにくい地理的環境にあるため、関西に住む人たちでもそれほど知っている場所ではないと思われます。旅好きの筆者も一度だけ、しかも最近になって初めて訪問した場所であります。ある時期までは地元福井県を別にして、近畿圏を離れた所の人たちの間ではほとんど無名に近い市ではなかったでしょうか。
それが先年、拉致先の北朝鮮から帰国された地村夫妻の出身地ということでマスコミを通じて一躍全国に知れ渡り、今はまた、NHK 朝のドラマの舞台ということで知名度を上げたことでしょう1 。
江戸時代の小浜藩といえば10万石ほどの小藩でしたが、藩主は譜代でも名門中の名門、酒井家の一族です。幕末物が好きな人には、井伊大老による安政の大獄の犠牲者第一号、梅田雲浜を思い浮かべるかもしれませんね。しかし、小浜藩は小藩ながら日本の医学史上、画期的な出来事に関係していた藩なのです。
まずは“ターヘル・アナトミア”に関することがあります。長崎のオランダ商館から入手した、このオランダ語で書かれた医学書に“解体新書”と名づけて日本語への翻訳本を世に問うた杉田玄白(1733-1817)は小浜藩の医官でした。実は玄白にはオランダ語の語学力があったわけではなく、解体新書の刊行にあたってはプロデューサー的な役割を演じています(実際の翻訳は作業グループの中心的存在だった前野良澤です)。
ところで、解体新書により人体内部の臓器が正確に明らかにされた時期よりも17年も前に、京都の山脇東洋(1705-1762)により人体内部が俯瞰されていました。これが日本で最初の人体解剖であった事実は広く知られていることです。それまでの日本では、人体を解剖するなんてことは固く禁じられていたことで、東洋は人体内臓とよく似ているといわれていたカワウソの解剖で我慢していたそうです。宝暦4年(1754)、斬首刑となった罪人の人体解剖がやっと京都所司代から許可されました。この時の京都所司代を勤めていたのが、これまた、小浜藩主だったのです。また、解剖を見学した医者の中には東洋の弟子たちもいましたが、その人たちも小浜藩の医者でありました。
このように、鎖国下の江戸時代にあって、日本の医学史上に記念碑を残す役割を演じたのが小浜藩でありました。
今に名を残す“鯖街道” で小浜市とつながっているのが筆者の住む京都市であります。ここからは、“そうだ、京都へ行こう”と思っている方々への追記です。
筆者の自宅から徒歩15分ぐらいの所に、山脇東洋の偉業を称えて“近代医学発祥之地”と記された記念碑が建っています。アテネオリンピックの金メダリスト野口みずきさんが、雨の日にマラソンの練習で走ったというアーケードのある三条商店街を少し脇に入った所にあります(京都に来た観光客の多くが行き来する三条通りよりはずっと西の方に位置します)。その場所は今、マンションの入り口のような所となっています。
山脇東洋の記念碑を見に行けばすぐ気付くと思いますが、隣にはある尊王の志士の殉難を示す石碑が並んで建っています。その志士とは薩摩の西郷隆盛と親交のあった平野国臣です。安政の大獄で窮地に陥った京都の勤皇僧月照と西郷隆盛が錦江湾で入水自殺を図った際、西郷を助け上げた人でも知られています。生野の変を起こし、獄舎に繋がれていたのですが、その獄舎というのが昔、山脇東洋が人体解剖を俯瞰した場所、六角獄舎でありました。それが今の、石碑がある場所なのです。
有名な蛤御門の変の際、火の手が六角獄舎にまで届き、急場の処置として罪人として投獄されていた多くの勤皇の志士たちは斬首されてしまいました。この中に平野国臣もいたというわけです。
平野国臣はなかなか爽快な人物だったようで、その快男児ぶりは坂本竜馬クラスであったともいいます。次の歌は彼が吟じたものですが、何と豪快なことか。
我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば
煙はうすし 桜島山
2007年12月記
- オバマ米国大統領選が誕生した年にも、語呂合わせのように脚光を浴びましたね。 [↩]