FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第34話 運命の血×

先月の11月15日(2005年当時)、アメリカのブッシュ大統領が京都御所内に完成した迎賓館を訪れるというので、筆者が住む京都市内は物々しい警備でした。東京からの警察官もたくさん助っ人に来ていたようでした。どういう経路で入京するのかと思っていたら、何とヘリコプターで御所に降り立ちました。テレビニュースを見ていたら、まるで映画のシーンを見ているようでした。

そんなことで、過去、日本の歴史年表に彩を添えてくれた海外からの訪問者の中で一番の大物は一体誰であったろうか、と古代から現代までを思い巡らしては初冬、休日午後のすさび事にしてみました。

人によってはフランシスコ・ザビエル(Xavier;西1506-1552)を挙げるかもしれませんね。あるいは、マシュー・ペリー(Perry;米1794-1858)だと答える人がいるかもしれません。たしかに、その後の日本の歴史への影響の大きさを考えると二人にうなずけるところもあります。しかし、尺度がその人自身の大物度という点ではちょっと違う気がします。

何度考えてみても、やはりそれはアルバート・アインシュタイン(Einstein;独/米1879-1945)ではなかろうかと筆者は思うのですが、どうでしょうか。アメリカの時事週刊誌タイムが世紀の変わり目に表紙を飾る20世紀の代表人物として選んだ人です。

大正11年(1922)秋、日本の野心的な出版社から招聘を受けて、アインシュタインは来日しました。そのときの日本の大騒動ぶりや彼から影響を受けた周囲の人たちを描いた本が、金子務氏の“アインシュタイン・ショック”です。

この本、数あるアインシュタイン物の中でも、本人自身よりもむしろ周りの人たちに視線を向けたユニークな本です。取材の苦労がうかがえる力作でもあります。内容的には理系の本というよりは文系の本という感じがする本であります。

15年ほど前に出版された本ですが、今も文庫本で出版されているので読者の中にはお読みになった方もおられることでしょう。だが、未読の方もおられることでしょうから、筆者がこの本で印象に残った話2つを紹介しておきましょう。

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アインシュタイン招聘の打ち合わせのため、ベルリンを訪れていた出版者の社員が、ある月夜にアインシュタイン夫妻と散歩に出かけたときのことです。アインシュタインの2番目の夫人であったエルザが煌々と輝いていた月を見て、突然、「日本にもあの月はあるの」と尋ねたといいます。

20世紀に入り、はや四半世紀を迎えようとしている時期です。西欧の一婦人には後進国日本はいまだ未知にあふれた地域の印象だったようですね。だが、日本人は彼女の夫君の言葉に助けられるのです。「ばかを言いなさんな。日本ではもっといい月が見られるよ」

さて、紆余曲折を経てアインシュタイン夫妻がマルセーユから日本郵船の船で出航する運びに至ります。船がアフリカ東海岸沖を進んでいるときのことです。尾籠な話で恐縮しますが、アインシュタインに血便が出ました。腸の癌を疑ったエルザ夫人は混乱します。このとき、たまたまドイツで開催されていた国際医学会に参加して帰国の途にあった、一人の日本人医師が同船していました。三宅速(はやりと読むそうです)博士です。

三宅の診察で血便は腸癌からではなく、痔が原因と判明します。このとき、もし、癌であったなら、アインシュタインは航海途中でUターンしたことでしょう。実に日本にとっては運命の血便だったわけです。

このときの同船と診察が縁で、その後、アインシュタインと三宅の間には友情が生まれ、三宅が亡くなる(三宅は慶応4年生まれでアインシュタインより12歳年長。ただし、病死ではありません)まで交流が続いたといいます。

ところで、アインシュタインの来日に際しては、往路、帰路ともに日本人との面白い交流が生まれていて大変興味深いことがあります。往路はもちろん、三宅との交流ですが、帰路にもある著名な工学者との交流がありました。そのことは次回のお話で紹介しましょう。今では考えにくい長い船旅ゆえの人の国際的交流ですね。

話は突然、変わります。

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徳島県の吉野川沿いにある町で、徳島市と、以前“やまびこ打線”で甲子園を沸かせた池田高校のある池田町(現三好市内)との中間の位置に穴吹町(現美馬市内)という所があります。ここに、日本では唯一ではないかと思われるアインシュタインによる碑文があるそうです。先の戦争中、岡山にいる子息の所へ身を寄せていた三宅夫妻が空襲により亡くなったことへのアインシュタインからの哀悼文が刻まれているといいます。三宅速の生まれ故郷がここ、徳島県穴吹町だったのです。機会があれば、一度は訪れてみたいものです1

さて、今年2005年も後一月で終えようとしています。 今年は、特殊相対性理論など、3つの画期的な論文が発表された“奇跡の年”といわれた年からちょうど100年目です。そのため、各地でアインシュタインを記念したイベントが開催されたり、アインシュタイン関係の多くの科学啓蒙書が発行されています。

これから100年経った2105年にもアインシュタインの人気と彼の科学への評価は相変わらず続いているでしょうか。現代物理学者の中には、今後、相対性理論と量子力学のどちらか1つが残るとしたら、それは量子力学だとはっきり発言する人たちがいます。アインシュタイン・ファンにとっては気になる発言でしょうね。

初期には彼も貢献し、確率概念が導入された頃からは猛烈に反対した量子力学とアインシュタインとの相克は20世紀前半の壮大な物理ドラマでした。21世紀はどんなドラマが待ち構えているのでしょうか、興味津々ですね。残念なことですが、筆者はこの世で観劇することはできません。

2005年12月記

  1. 下の写真は、2011年に筆者が訪れた際、撮影した写真です。墓碑にある英文がアインシュタインからの哀悼文です。34-334-4 []

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