FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第25話 三都物語

アメリカの東海岸に位置するニューハンプシャー州の州都コンコードは、隣のマサチューセッツ州との境界問題が平和的(CONCORD)に解決されたことから付いたネーミングだそうです。その以前はラムフォードと呼ばれていたらしいです。

このラムフォードに一時、住んでいたことから後年、ラムフォード伯爵と呼ばれるようになる一人の物理学者がいました。ベンジャミン・トンプソン(Thompson;1753-1814)のことです。この人物ほど波乱万丈の生涯を送った物理学者は他にいないでしょう。スパイ活動に始まり、軍人でもあり政治家でもあった実験物理学者でありました。あちこちに愛人を作るという、ちょっとしたドンファン振りの私生活もありました。

トンプソンは先祖の移民先である新大陸アメリカで生まれています。生涯を貫く行動力は少年時代から発揮されており、若年のころからいくつかの職業についています。たぶん、金銭目当てでしょうが、19歳のとき、11歳年長の裕福な未亡人と結婚したことが、その後の彼の人生を暗示しているかのようでした。

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トンプソンがアメリカで生きた時代は独立戦争の時期でありました。彼も何かとこの戦いに関係していますが、なんと英国側のスパイ活動をしていたのです。そんなことで、形勢不利となるや妻子を捨てて英国本土へ脱出してしまいました。後年、娘さんを呼び寄せたこともありますが、奥さんについては二度と顔を合わせることがなかったそうです。

英本国へ逃亡してからがトンプソンの人生の第二幕であり、ヨーロッパ大陸が彼の真骨頂の舞台でありました。ロンドン、パリ、ミュンヘンという三都市間を何度も行き来し、それも自分の立場が悪くなってくると生活拠点を移すという生涯でした。三都市では彼なりの痕跡を残しているところが面白いです。

ミュンヘンでは行政官としての活躍が目立っています。貧民救済のために、栄養、食事、工場、公園などの社会政策の企画面での貢献が大きく、伯爵に列せられたのもこの時期です。しかし、この時期の特筆すべきことは、物理学者としての彼の熱理論でした。

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当時、熱の理論では熱素(カロリック)説が幅を効かせており、摩擦熱もそれで説明されていました。トンプソンは軍事工場で大砲の製作を監督する機会があり、砲身の中をえぐる場面に遭遇したことがあります。この時、大量に発生し続ける摩擦熱がカロリックでは説明しきれないことから、この説を否定して熱の運動説を指摘するようになります。トンプソンにとってこれが物理学史の上で彼の名を残した一番の出来事であったと思います。

ロンドンでの痕跡は、王立研究所設立の提案です。講演と実験で一般大衆にも科学を理解してもらう目的のための公共機関を、寄付金で設立するというものでした。この機関、トンプソンが計画していた日常生活に役立てる科学という目的からはずれていくのですが、この王立研究所に就任した代々の所長には錚々たる人たちがいます。初期の頃にはデイビー、ファラデーがいます。有名なファラデーの著“ろうそくの科学”も彼が始めた当所でのクリスマス講演の賜物でありました。

その後、ヤング、レイリー、ブラッグ父子という具合にイギリス物理学での天才たちが、それぞれの時代で所長に就任している歴史ある研究所でありました。

閑話休題。パリではトンプソンは私生活面で派手な痕跡を残しています。女性面でお盛んな彼のこととて、パリでももちろん例外ではないどころか、むしろ場所柄、ますます行動が大胆になっています。

しばらくは愛人相手の一人であったラヴァジェ未亡人と結婚するようになります。もちろん、彼女の以前の夫はギロチンの断頭台に露と消えた有名な化学者ラヴァジェ(Lavoisier;仏1743-1794)です。夫を亡くした同日に実の父親も同じく露と消えるという悲劇にあう女性でした。夫も父親も大衆には憎まれる徴税請負人の仲間だったための犠牲です。

しかし、結婚生活は長くは続きませんでした。ラヴァジェ夫人の頃は、彼女の画才と堪能な語学が夫の研究発表を助けていたようですが、彼女も当時のパリの上流家庭の社交界の例外ではなかったのです。連日連夜の宴で派手に振る舞う奥さんに根を上げたトンプソン、「ラヴァジェはギロチンにかかってむしろ幸運だった」とまで言うようになります。結局別れました。

物理学者としてのトンプソンは、日常生活に密着した現象に興味を持ち、研究するタイプでした。暖炉、料理レンジ、照明の改善、はたまた、コーヒーの入れ方にまで関心を持ち、そのことから熱、光のことを研究したのです。そういう意味では物理学者というよりは工学者と呼んだ方が適切であるかもしれません。

野心家で自己中心的な行動が目立つトンプソンは物理学者という肩書きがあるためにFAMOUS な人物となりましたが、もし、それがなかったらNOTORIOUSな人物と評価されたかもしれませんね。

2004年5月記

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