第22話 蘭均
土質力学を学ぶ人は必ず土圧の公式に出会うことになりますね。
古典的土圧理論にはクーロン土圧とランキン土圧という2大理論があります。前者は剛体力学をベースにしており、後者は塑性理論をベースにしています。歴史の流れからは当然の理論背景でしょう。
クーロンは第6話で登場してもらいましたので、ここではランキン(Rankine;英1820-1872)のことについて話します。この人、一般にはあまり知られていない人物ですが、西欧の工学史上なかなかの人物だったようです。親子二代の鉄道技術者であり、後に理論的分野に身をおくようになると、座屈理論、金属疲労で功績を上げ、“近代土木工学の父”と呼ばれているようです。
ランキンの功績で重要だった点は、難解な物理学を技術者にも理解できる工学レベルに引き下ろしたことです。それまで経験に基づく程度のものが多かった工学分野にあって、科学を採り入れたサイエンティストだったのです。英語圏の材料力学にあって、応力、歪の概念を正当に定義して使用した最初の人がランキンだということです。
さらに注目すべき点は工学方面でのランキンの多彩な活躍です。本来、土木工学の専門家でありながら機械工学方面での功績も多く、特に応用熱力学の面で大きな功績があったようです。筆者は門外漢なのですが、工業方面の熱力学では“ランキンサイクル”という用語があるようです。また、英語圏の人たちの間では“ランキン目盛”という温度目盛が使用されていた歴史があるそうです。
ところで、このランキンは若い最晩年にわが日本と接点を持っているから面白いです。明治4年(1871)、岩倉具視を全権大使とする史上有名な遣欧米使節団が出発していますね。翌年、英国滞在中に随行していた副使の伊藤博文は、日本の工業教育促進のため工学方面の教師を求めることになります。後年、憲法問題に没頭する伊藤もこの頃は工学方面の総帥的位置にあり、日本の工業化政策に力点を置いていたようです。時に伊藤、31歳でありました。若くて溌剌としていた明治日本が浮かんでくるようです。
さて、教師派遣を求められた英国側は最終的に工学方面の第一人者で、グラスゴー大学1 で教鞭をとるランキン教授に誰か推挙してもらうことになります。このとき、ランキンが立派だったと思うのは、東洋の一小国の依頼だからといって、いい加減な人物を推さなかったことです。まず、彼の愛弟子であるヘンリー・ダイアリーを日本に派遣させたのです。ダイアリーは初期のお雇い外国人の一人となり、日本の学校では教頭の立場となりました。
そんなことで、明治7年、工学寮から名称を変えた工部大学校(後の東京大学工学部の前身)に12名全員、英国人という外国人教師が揃うことになります。結果的に日本の工学教育は、グラスゴー大学を中心とするスコットランド閥が出来上がっていくことになります。 ランキンの人生が燃え尽きた最期の年に日本は彼と縁を持ったことになるわけです。
2003年10月記
- グラスゴー大学といえば、22歳の若さで教授になった有名なケルヴィン(Kelvin;英1824-1907)がいますね。日本政府は、ケルヴィンにも教師の派遣を依頼することになり、彼の息のかかった人たちも多く来日しています。 [↩]