FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第11話 ラプラスとコーシー

ピエール・シモン・ラプラス(P. S. Laplace;仏1749-1827)とオーギュスタン・コーシー(A. Cauchy;仏1789-1857)。かたやフランスのニュートンと呼ばれ、かたやフランスのガウスと呼ばれた、フランス革命前後の大物数学者であります。両者とも工学系の人間にとっては馴染みの深い名前ですね。ラプラスなどはオイラー、ガウスに負けず劣らず工学系の教科書にその名前が出てくるのではないでしょうか。

二人ともに革命という動乱時代を生きたのですが、年齢的にはかなり開きがあります。革命児ナポレオンがその絶頂期を過ごしていた1800年(第二次イタリア遠征)当時、ラプラスが51歳でコーシーはまだ、わずか11歳でした。親子以上の年の違う二人の数学者が演じた面白い一場面は後で話すとしまして、まず、二人の簡単なプロフィールから紹介しましょう。

ラプラスは解析学といい、天体力学といい、確率論といい、数学、物理の両分野で非常に貢献した人です。力学系の仕事をする人には、場の方程式である“ラプラスの方程式”が一番親しいですね。

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科学者としては偉大な人物であったラプラス、政治的には大変な変節漢だったことを読者はご存知でしょうか。右へ左へ政権が変わる度に二股膏薬のごとく振る舞ったのでした。もし、彼が主人公の小説があるとすれば、ちょっとしたピカレスク小説ではないでしょうか。ラプラスの無節操ぶりには、庇護したナポレオンでさえ、あきれかえっていたほどなのです。

ナポレオンとラプラスの出会いは興味深いものです。王制時代、砲兵隊の面接官をしていたラプラスはナポレオン・ボナパルトという有望な16歳の候補者を知ることになります。後年、ナポレオンがエジプト遠征将校になるときもラプラスは手を貸したらしいのです。この時の恩をナポレオンは自分が政権を握った時、内務大臣の地位でラプラスに報いています。ナポレオンが失政するとやはり、ラプラスは変節しています。

ラプラスにはもう1つ問題点がありました。自分の論文に引用している他人の業績をあたかも自分のものとして書く癖があったのです。彼の先輩でもある温厚なラグランジュ(Lagrange;仏1736-1813)も、「ラプラスは彼自身の業績だけでもりっぱなものであるのに、どうして人の功績まで自分のものとするのか」と言っているほどです。

こう書いてくると欠陥人間のようなラプラスですが、一方では後輩の科学者には手を差し伸べることを忘れない温かい一面もあったといいます。

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次にコーシーです。応用力学の分野に携わる人間にとって、彼は恩人であります。“現代解析学の父”とも呼ばれていることからして純粋数学の権化のように思われるコーシーは意外にも一時期、弾性学に関心を持っていたのです。そして、今日の構造設計者が、常日ごろ使用している応力の概念はコーシーが確立したものなのです。応用力学を材料力学や構造力学だけで済ませた方にはコーシーの名は表面に出てこないかもしれませんが、非線形力学、連続体力学まで接すれば“コーシー応力”の定義がはっきりすることになります。

コーシー応力は連続体(媒質)の力学での概念です。弾性体の解明にはもう1つ、分子構造に基本を置いた分子力学というのが当時からありました。コーシーのライバル的存在だったポアソン(Poisson;仏1781-1840)などはこちらの立場をとっていました。ついでに言っておきますと、ポアソンはそこで、1つの誤りをおかしています。論争の種だった弾性定数の数を等方性物質では1つと決定してしまったのです。

コーシーも後に分子力学のアプローチを取ることになるのですが、皮肉なことにそれらの成果は歴史に残らず、彼が既に捨て去った連続体力学の成果が今も実学的な力学書物に残る応力なのであります。

コーシーは少年の頃から、ラグランジュがその才能を楽しみにしていた神童振りを示し、若年で、ナポレオンが創設したといってもいい入学困難なエコール・ポリテクニク(高等理科教育機関)を2番で入学したといいます。ポアソンもここの卒業生でありました。

コーシーの2つ目の意外は最初、土木技術者を目指していたことです。実際、一時期はこの世界で働いていたこともあります。私事ながら、応力といい土木といい、筆者には自分が土木分野出身だけにコーシーが親しみやすい存在でもありました。

さて、冒頭で言ったラプラスとコーシーの話です。

時は1820年といいますから、コーシーは頭角を現しつつある少壮の数学者でした。数学者の集うある会合で彼は無限級数の収束性を論じました。無限級数はオイラーの時代もそうでしたが、その当時でもまだ、数学的厳密性はあまり追求されずに、応用面で利用されていた時代的背景がありました。コーシーは無限級数の収束、発散の厳密論を論じたのです。

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この発表時の聴衆者の中には、老数学者ラプラスもいました。コーシーの話を聞くやいなやラプラスは急いで帰宅し、その後しばらくは面会謝絶で、自分の著作物で使用している無限級数のチェック作業をしたといいます。実はきわどい級数もあったといいます。もし、発散ということになれば、当時の科学者達が範としていた彼の名作“天体力学”はごみ箱行きになっていたのであります。

筆者はこのエピソードを学生時代に読んだ本で知り、おかしくておかしくて、いつまでも頭の中に残っているので、皆さんにご紹介した次等です。

2001年11月記

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