第2話 昔、インドの大天才
IT 時代を迎えてインド人の数学的才能が脚光を浴びていますね。その背景にはゼロの発見や、日本でいう九九の暗算をインドでは9×19までするというデジタル文化の存在があると言われています。インド人の数学的才能と言えば、筆者は真っ先に悲運の天才数学者、ラマヌジャン(Ramanujan; 印1887-1920)のことを思い浮かべてしまいます。
純粋数学の分野の人だったので、われわれ工学系の人間にはあまり知られていない数学者ですが、筆者はたまたま数学史に興味を持っていたものですから、学生時代に読んだ一冊の数学史の本の中でこの人の名前を初めて知りました。
それこそ、湯水の湧くがごとく数論の公式を見つけ出したという、とんでもない大天才でありました。次の式はそのほんの一例であります。
ラマヌジャンは現在、ソフトウェア企業などハイテク産業が集積している南インドのバンガロールがある州の隣接州に1887年に生まれています。マドラス港湾局の経理部員をしながら趣味で始めた数学なのに、どういう頭脳回路になっているのか、次から次へと不可解な公式、定理をメモに書いていきます。インド国内にはこれを評価できる数学者がいなくて、紆余曲折した後英国にいる、時の大数学者ハーディ(G. H. Hardy;英1877-1947)の元にメモが届くことになります。 メモ中の公式には間違いがあったり、既にハーディにとって自明のものも結構あったりして、彼は最初、メモをごみ箱に捨てようとしたらしいですね。その矢先、目にとまったのが以前、自分で証明はしていたが、いまだ世間に発表していなかった公式です。自分以外誰も知るはずもないものです。数学史を彩る1つのドラマチックな瞬間でありました。
天才と見抜いたハーディによって、ついにラマヌジャンはケンブリッジ大学に招かれることになります。ケンブリッジにおいても周りの人間を驚嘆させる才能を発揮することになるラマヌジャンでした。後年、大数学者ハーディをして、「私の数学界への最大の貢献はラマヌジャンを発見したことだ」と言わしめたほどであります。
ただ、ラマヌジャンは公式の証明については無頓着だったらしいです。公式の証明には関心がなく、公式の発見に集中していたのです。これは彼が正規の大学教育を受けていなかったので、その必要性を理解できていなかったからだとも言われています。発見した公式をハーディの所へ持っていく度に、純粋数学の権化のようなハーディに証明を求められたといいます。
ラマヌジャンの最期は無念の最期でした。慣れない西欧文明の中での生活に精神的にも肉体的にもまいってしまい、インドに帰国後33歳の若さでこの世を去ってしまいました。
さて、ここまでの話だと純粋数学の話題で、応用力学分野の人たちには何の関係も無いことで終わりそうですが、話はこれで終わりませんよ。
ここに出てきたハーディのケンブリッジでの恩師がなんと、数理弾性学の名著“A TREATISE ON THE MATHEMATICAL THEORY OF ELASTICITY”で有名なラブ(A. E. H. Love:英1863-1940)なのです。
地震時に発生する表面波の一つラブ波にも名前が冠せられている応用数学の大家です。
この名著は邦訳されていないため正直に白状しますと、筆者はこれを全て読んだわけではありません。大学院生の頃、研究の対象としていた曲線梁の理論的背景を知るために関係するページを読んだにすぎません。しかし、この本の序章的位置にページが割かれている数理弾性学の歴史の著述はなかなか興味深く、研究に関係もないのに思わず熟読したことを思い出します。ティモシェンコ(Timoshenko;露1878-1972)の“材料力学史”もこれを参考にしていたと思われます。
ハーディの著書には彼が数学の分野に目覚めた契機は、ラブから勧められた一冊の数学書だったと述懐している場面があります。
応用を極力嫌い、数学の美しさのみを徹底して追い求めた、完全なる純粋数学者の恩師が地球物理学、弾性学分野では歴然と名を残す応用数学の泰斗とは、歴史も皮肉なバトンリレーを提供するものでありますね。
[追記]
ラマヌジャンについて関心を持たれ、数式なしの一般書をお読みになりたい方には、数年前(2000年当時)に新潮社が出版した数学者藤原正彦氏1 (父君が作家の新田二郎氏)著の“心は孤独な数学者”をお勧めします。
本書は旅行記の形式でニュートン、ハミルトンと並んでラマヌジャンのことが紹介されています。
2000年11月記
[再追記]
“心は孤独な数学者”は書名を“天才の栄光と挫折”と改めて今年、文庫本が出版されています。
2008年10月記
- 先年、洛陽の紙価を高めた“国家の品格”の著者でもありますから、ほとんどの読者はご存知でしょう。 [↩]