FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第19話 超寡黙な物理予言者

映画が娯楽の王様だった時代、銀幕の大スターといわれた俳優は、洋の東西を問わず日本式にいえば、ほとんどが明治生まれの人たちでした。洋画でいえば、ゲイリー・クーパー(1901-1961)もクラーク・ゲーブル(1901-1960)も、またハンフリー・ボガード(1899-1957)もそうでした。したがって、この人たちを憧れの眼で見ていたのは、筆者らの親の世代(おそらく大正生まれでしょう)の若い頃だったと思います。年齢が祖父母の世代にあたるスターたちなので、筆者の世代ではあまり知らない人たちとなるのですが、大の映画好きである筆者は、彼らの出演映画をほとんど観ています。

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そんな懐かしのオールドスターたちの中に、ケーリー・グラント(1904-1986)という俳優がいました。“断崖”、“汚名”、“泥棒成金”とヒッチコック作品に多く出演していました。中でも筆者は、“北北西に進路をとれ”が一番印象に残っています。あるいは、オードリー・ヘップバーンと共演した“シャレード”をあげれば、思い出す読者もおられるのではないでしょうか。

C.グラントはアメリカに渡って成功した人ですが、生まれは英国ロンドンの西部にある港湾都市ブリストルでした。彼のブリストル時代は、非常に貧困な家庭生活だったようです。彼が当地の小学校に通っていた頃、年齢は二歳上でしたが、同じ学校に通って同じ時代、同じ土地の空気を吸っていた、後年大物理学者となる、非常に無口で目立たない少年がいました。その少年とは、ポール・ディラック(P.Dirac:1902-1984)のことです。ただし、その当時も、後年も二人が交流を持ったという話はないようですが。

 

ディラックの無口ぶりは、彼が生きた時代の物理界では有名な話で、そのエピソードを語るだけでちょっとした小冊子になるほどです。その一端を既に本エッセイ第1話で紹介済みです。この無口の原因を語る一説が、彼の生誕地ブリストルの小学校時代にあったというのがあります。真偽の程は不明ですが、なるほど、とつい信用したくなる解説です。

ディラックの生まれたのは、もちろん英国であり母親も英国出なのですが、父親の方は、実はスイス出身なのです。父親は、渡英する前はもっぱらフラン語を使っていたようで、稼ぎの手段の一つとして語学塾も開いていたようです。そのフランス語をディラックにも強制していたのです。昼間、家庭外では英語を使っていても、夜、家に中にいるときはフランス語を使うように父親に命令されていたというのです。それで、子どもの頃のディラックは、両親というのは別々の母語を使用するのが当然のように思っていたといいます。語学に関しては、あまり得意でない(何かと、彼の先輩アインシュタインに似ていましたが、この点も同様) ディラックは、フランス語を使うのが苦手で嫌であり、家で喋らなければ、それから逃れるとの思いから、とうとう寡黙になってしまったというのです。このことが大きな理由で-他にも父親の高圧的、独裁的な態度にも由来しますが-ディラックは生涯、父親との関係は不幸的なものでした。

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ところで、一昨年の秋(2012年当時)、ディラックの生涯を語る“量子の海、ディラックの深淵”という翻訳本が早川書房から出版されました。上下二段組の分厚い本で、かなり読み応えがあります。それまでにも、量子物理学史の一節かなにかでディラックのことを紹介した本は多々あったでしょうが、1冊の本で彼の生涯を紹介したものは、日本ではこの本が唯一ではないでしょうか。実は、上の話もこの本から引用させてもらっています。

本書より、もう一つだけディラックの寡黙を語る面白いエピソードを拾ってみますと、こんなのがあります。ケンブリッジでの彼の同僚たちが作ったという単位のことです。ほとんど“YES”、“NO”しか発しないディラックをからかうことから、1時間あたり1語を喋ることをもって“1ディラック”と名付けたそうです。これが、その後普及したとは聞いていませんが、パソコンのマウスの動きの単位で“ミッキー”が使われたのと同様、冗談から生まれた単位ということで歴史に残っていたらよかったのに、と筆者は思います。

さて、ディラックの生涯を眺めてみて、強く印象に残ったのは、彼の数学に対する態度です。当時の物理学の巨匠たちの中でも、数学の強さにおいては、比肩する者を探すのが難しいほどのディラックですが-実際、長年ケンブリッジの名誉ある数学のルーカス教授職の座にありました-若い頃と名声を得て物理界の巨匠の一人になった以後では明らかに数学への考えが違うのです。

ディラックは、量子力学の創始期である20世紀前後に生まれた天才たちの中では、少し毛色の変わった天才でした。元々は技術者だったのです。最初に入学した大学では、将来の生活を考えて電気工学部門を選択していたのです。数理学面での優秀さを買われて、後にケンブリッジに移りますが、数学を専門的に深く学んでいくのはそれからであり、それまでは実用的な数学を学んでいました。技術者の血が入っていたものですから、ディラックの天才的発想で生まれた方程式への過程では、数学を大胆に利用しています。その最たるものが、ずいぶんと昔、“有限要素法よもやま話”第21話で紹介した“ディラックのδ関数”です。

あの時は、ディラックがどういう経緯でδ関数を自分が考える物理方程式で導入したのか知らずに話したのですが、“量子の海”を読み、工学部門に席を置く筆者には、たいへん興味深い一文を見つけました。やはり、構造物の一点に集中して掛かる荷重を扱うアイデアを物理にも転用していたといいます。工学者としてトレーニングされていた経験の賜物ですね。

そんなディラックでしたが、ディラックの方程式を初め幾多の創造的アイデアで量子物理学界に貢献して巨匠になってからは、彼の数学は変わりました。物理学者でありながら、数学の美を求めるようになりました。晩年になっては、極端にその傾向がありました。場の物理で生じる病的な問題、無限大の問題を回避する“繰り込み理論”が登場して、それが実験物理といかに一致しようが、「あれは、テクニックであって数学の美を損なう」と、頑なに拒否するのでした。実験に合う方程式よりも、数学的に美しい方程式を選択するのが、壮年以後のディラックの姿勢でした。

このディラックの姿を見て、アインシュタインのことを連想された読者もおられないでしょうか。彼の後半生は、革命的な物理、相対性理論を創始した時代の若き日の柔軟性を失い、もはや定説になりつつあった確率論的な量子力学を頑なに拒否し、一人、統一場理論の殻に閉じこもって、時の物理界では孤立してしまいました。
創造的な大天才とは、こうなる運命なのでしょうか。若き日の創造と栄光に包まれた上り坂の人生に対して、下り坂の学者としては、柔軟性を失い、頑なに自分の物理に固執してしまい、孤高の学者になってしまうのです。アインシュタインもディラックも晩年は孤高の大天才でした。

最後に、ディラックの寡黙ぶりを示す、もう一つのエピソードを紹介して終わりとします。デンマークに有名なボーア(Bohr:1885-1962)という物理学者がいました。量子論の黎明期に牽引役を務めた物理学界での大御所でしたので、世界中のあちらこちらの物理学者がボーアのいる研究所にやってきました。それで“コペンハーゲン詣で”という言葉が出来たぐらいです。

そのボーアが言ったといいます。「いろんな変人が私のところにやって来たものだが、その筆頭はディラックであった」と。

2012年4月記

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