FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第15話 地震学者は短命か?

“気象”という用語を広辞苑で調べてみたら下のような解説がありました。

  • 宇宙の根源とその作用である現象
  • 大気の状態および雨・風・雷など、大気中の諸現象

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こんなことを何故言い出したかといいますと、大地震の発生の度、テレビの画面に出てくる気象庁の技官にいつも違和感を持つからです。といっても技官個人のことではありません。気象庁の人が地震の解説をしていることに対してです。通常、“気象”という言葉には、上の2の意味で捉えている方が多いのではないでしょうか。筆者もその一人です。この先入観でいけば、日本人にとって一番深刻な天災である地震のことが、天気予報組織内の下部組織で扱われている、というイメージをどうしても拭えないのです。同じく広辞苑には、大地に起こる現象を意味する言葉として、“地象”という言葉もあります。それで“地象庁”というのがあってもよかったのでは、とも思ってしまいますが、“気象”には壮大な1の意味もあることを知ってしまえば、この違和感も払拭ですか。

そもそも、明治初期、気象庁の前身である中央気象台で地震現象を扱うことになったのも、自然発生的なことだったと言えなくもないのです。といいますのも、観測網の必要性から、その先輩格である気象台の観測所に地震計の設置を頼まざるを得ない状況があったからです。このきっかけは、明治24年(1891)に起きた内陸型の巨大地震、濃尾大地震でした。このとき、観測網の設置に尽力したのが、世界初の地震学者、関谷清景(1854-1896)でした。

地震観測の黎明期には、今となっては面白い話もあります。日本地震学への最初の恩人ミルン(“理系夜話”第52,53話参照)がまだ主導していた頃の話です。東京から、100マイル以内にある地方の役場に大量の郵便はがきを送っておき、地震発生の度に、地震感度を書いて返送してもらっていたとのことです(萩原尊禮著、地震学百年より)。郵便はがきを利用していたことで、歴史の気まぐれでは、ひょっとして、逓信省(旧郵政省の前身)管轄に地象庁ができていたかもしれませんね。そんな馬鹿なと思う人は、地震を扱う気象庁が以前、旧運輸省の所属官庁であったことを思い出してください。

気象台で地震を扱うといっても、東京大学の地震学教室との主従関係では、あくまでも気象台は従の立場だったみたいです。地震学教室というのは、先の関谷清景、大森房吉(1868-1923)、今村明恒(1870-1948)のラインです(“理系夜話”第53話参照)。当時、地震発生に際して、震源地の発表は、中央気象台が集めた地震記録を東大・地震学教室へ報告し、大森が考案した経験公式で震源地を確定してから報道機関に発表するという慣例があったみたいです。ところが、大正10年(1921)、東京に関東大震災の前触れのような強い地震が起こった際、一つの事件が起きました。気象台での経験が浅い若い技官が、こんなしきたりのあることも知らず、自分で割り出した震源地を直接新聞社に公表してしまいました。しかも、東大・地震学教室が出した震源地と食い違っていました。ということで、新聞社は“震源地争い”とセンセーショナルな見出しを出して、ちょっとした騒動になったそうです。両者の確執はその後もしばらく続いたそうです。

もっとも、こんな事件がなくても、時の中央気象台台長の岡田武松は、独立心が強い人で、かねがね自分の配下にある地震機構が東大の支配下にあることに苦々しい思いを持っていました。

岡田武松(1874-1956)という人は、マスコミ嫌いだったため、一般の知名度では、お天気博士として有名だった後任の台長藤原咲平(数学者でエッセイストの藤原正彦の大叔父)には譲るものの、研究、マネジメント両面で辣腕をふるった歴代台長で実力NO1の台長でした。随分、親分肌の人でもありました。研究は大学に任せておけばいいという姿勢ではなく、研究面にも随分肩入れをした台長でした。彼の専門分野でもないのに、地震方面でも叱咤激励した人でした。後年、気象庁の初代長官になる和達清夫(1902-1995)が深発地震の存在を確認するという世界的業績を上げた例もあるとおりです。

似た組織が存在すると、縄張り争いが起こるのは世の常ですが、大学の研究室、気象台に加えて、さらに新たな組織が加わることになります。大正12年(1923)に起こった関東大震災を契機として、大正14年(1925)、一風変わった方向から“地震研究所”というものが出来ました。

事の発端は、初代所長となる末広恭二(1877-1932)と彼の盟友寺田寅彦(1878-1935)二人が構想していたものでした。その背景には、それまでの地震学で一世を風靡していた大森地震学および彼の後継者今村明恒のラインである現象論的地震学に物足りなさを感じるようになったことがあります。地震予知という観点からひとまず離れて、地震に対する物理的追究と耐震対策という二つに焦点を絞った研究機関を狙ったものでした。一応、組織としては、東京帝国大学の附属機関でしたが、面白いのは、その自立心旺盛な点で、事務用封筒の住所欄には、東京帝国大学地震研究所ではなく、東京帝国大学構内地震研究所と印刷されていたそうです(萩原尊禮著、同書)。

地震研究所創設時のスタッフがユニークだったのは、創設者の末広恭二(“理系夜話”第13話参照)が造船工学の専門家であり、彼が専任所員としてスカウトしてきた、妹澤克惟(せざわかつただ、1895-1944)、石本巳四雄(1893-1940)も元々造船屋さんでした。三人とも、船体の振動解析に携わっていた振動学のプロでしたが、地震そのものに対しては、素人という訳だったのです。いわば、波動論の立場から地震に接近する立場ではなく、振動論からのアプローチでできた地震研究所とでもいえるでしょうか。石本巳四雄という方は、筆者は全く知らないのですが、妹澤克惟の方は、昔、大学の図書館の書棚に彼の著“振動学”があったことを覚えています。

最後に、読者はここまで読まれて何か気付いたことはありませんか。人名の後ろに記した生涯年号を見れば、ほとんどの方が短命だったことに気付かれませんか。別に地震の専門家ではなかったですが、何かと地震に関わった寺田寅彦も含めて、改めて没年齢を記すと下の通りになります。

 

■ 関谷清景 42歳
■ 大森房吉 55歳
■ 今村明恒 78歳
■ 末広恭二 55歳
■ 寺田寅彦 58歳
■ 妹澤克惟 49歳
■ 石本巳四雄 48歳

 

今村明恒を除いて、皆還暦を迎えることなく鬼籍に入られています。こんなことを言えば、地震学を目指そうとされている若い研究者が気にされてもいけませんので、ここに出てきた最後の一人、和達清夫の場合を言っておきます。

彼は92歳という長命でした。短命だったのは全くの偶然でしょう。

2011年9月記

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