FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第57話 流浪の応用数学者

過日、確率論の歴史物を読んでいますと、フォン・ミーゼスの名が出てきて驚きました。材料塑性学でわれわれがよく知るあのミーゼスかと思って調べてみましたら、まさに同一人物でした。

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筆者は若い頃の一時期、大気汚染の問題に携わったことがあり、その時期にそれまで縁の無かった統計学を少し勉強したぐらいで、確率・統計という分野にはあまり縁がなかったゆえ知らなかったのですが、フォン・ミーゼスはむしろ確率論の進歩に貢献した人物として有名になっていたとのことでした。

物理分野でわれわれが知るラプラスやポアソンも確率の数学に携わっている例で見るように、ミーゼスの場合も何の不思議もなさそうですが、ラプラスらの時代と違って、ミーゼスが活躍する時代は科学、数学が細分化を始める20世紀の時代です。筆者にとっては驚きであり、ちょっと感動した次第です。

工学関係の人間、特に材料力学に関係する人たちにとって“ミーゼスの相当応力”でその名を知るミーゼスも、彼のプロフィールについてはあまり知られていないでしょうから、筆者が調べた範囲でここに紹介してみましょう。

フォン・ミーゼス(Von Mises;墺1883-1953)は当時オーストリア・ハンガリーの統治下にあった町に生まれました。現在、その地はウクライナのルボフという所らしいです。生まれた時代といい、生まれた場所といい、ミーゼスにはその後の複雑な人生航路が待ち受けていました。

応用数学者としての一生の始まりは1907年、現在のウィーン工科大学でのドクター号取得前後の時期でした。今、応用数学者と言ってしまいましたが、たしかに、ミーゼスのライフワークはこの分野であり、当分野だけでも一流の研究実績も多いのですが、彼にはこれ以外にも3つの記念碑的業績がありました。

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まずは応用数学者としての側面についてですが、ミーゼスの青年時代は時あたかも第一次世界大戦の時代です。この当時、彼はストラスブルグでの応用数学の教授でしたが、航空機のパイロットでもあったので、戦争が始まるとオーストリア・ハンガリー軍に志願するとともに航空機の設計指導者としても振る舞うという、学者としてはユニークな行動をとっています。ただし、このときの航空機の製作は失敗に終わりましたが、翼の設計から乱流に興味を持ち、流体力学、空力学分野への研究につながっていきました。そして、その乱流の振る舞いが後の確率論の考察へと彼を導いたようです。このように、ミーゼスは非常に精力的な応用数学者であり、彼の前に立ちふさがる難問を持ち前の数学力で克服していく連続でした。

1919年、ベルリン大学に応用数学研究所が設立されると、そこの指導者としてミーゼスは招かれました。一方、ドイツにはゲッチンゲン大学でフェリックス・クラインがプラントルを招いて1904年に創設したという有名な応用数学研究所がありました。ミーゼスとゲッチンゲンとの関係がよく分からないのですが、ともかく、1913年には塑性学の分野では有名なミーゼスの“塑性変形理論”がそのゲッチンゲンで発表されています。この論文こそ、「材料の降伏は偏差応力の第二不変量で決まる」というよく知られたミーゼスの降伏応力の概念を述べた論文であります。3次元の複雑な応力場から理解しやすい1次元応力へと換算してくれる、技術者にとっては非常にありがたい指標であります。

ベルリン時代にミーゼスは応用数学・応用力学を対象とした雑誌を創刊し、その編集長を務めることになります。これが彼の2番目の功績であります。こういう雑誌は世界で初めてのことであり、その後に続く専門雑誌の模範となったようです。オリジナルの大論文が続々と掲載されたようで、戦前の研究者たちには垂涎の的だったと聞いています。

1921年発刊のその第一号には応用力学分野では特筆すべき論文が掲載されました。それは、ゲッチンゲンにいるプラントルによる“塑性滑り論”であり、この論文以降、塑性論が急速に進歩していったといわれている論文であります。今も、地盤工学分野などでは数値解析の検証対象として利用されているものです。

ミーゼスの3番目の功績は確率論の分野です。冒頭でも言いましたように、一般にはこの功績こそが彼を一番有名にしているそうです。時代からしてベルリン時代のことらしいですが、1919年に始まる一連の講義の後、1928年に“確率・統計・真理”という論文を発表しています。

確率論の分野は、それこそどうしてもあいまいさを対象とするものですから、パスカル、フェルマーの昔から論争の絶えない数学部門でした。深く入れ込むと、哲学の問題となってしまいます。事実、哲学者も確率論に携わっているぐらいです。

確率の定義には大きく分けて3つ分類があるそうで、ミーゼスの確率定義がその1つであり、“頻度説”といわれているそうです。ランダムネスを予測不能性と同義し、彼の論によれば「世の中に賭けのシステムはあり得ない」ということになるそうです。それで、彼は確率論者の間では“ニヒリスト”と呼ばれていたらしいです。今では、彼の功績が歴史的意味でしかないのか、あるいは、依然、有効な理論なのか、その判定は筆者には分かりませんが、ともかく確率論の歴史を書く書籍にはミーゼスの名は必ず出ています。

1933年、ドイツでヒトラーが力を持つ時代になると、彼の非アーリア人排斥政策に危機を感じたミーゼスは一旦、トルコの大学に避難した後、同様の環境を持つ学者たちと同じくアメリカに渡ります。ハーバード大学で応用数学、空力学の教鞭をとることになります。

生誕年が近く、境遇も専門分野もよく似たフォン・カルマン(第17話参照)に比べると渡米後のフォン・ミーゼスにはあまり活躍の文章が見当たらないのは残念であります。

あ、そうそう。最後の4番目の功績を忘れていました。それは、突拍子もないことですが、ミーゼスは“マルテの手記”で有名なオーストリアの詩人リルケに関する世界的権威だったそうですよ。

 

[追記]

昨年後半(2007)、ハンガリー生まれ(1887)でやはり政治的事情で米国へ亡命した数学者、G. ポーヤ著の“自然科学における数学的方法(細川尋史訳)”という本がシュプリンガー・ジャパンより出版されました。

タイトルからは何だか難しそうな本に思えそうですが、そんなことはなく、高校物理を含蓄ある内容で復習するように読める好著であります。

ところで、この中でもフォン・ミーゼスの名前を見つけました。著者がミーゼスの生の声を聞いたとして紹介している、興味深い“航行三角形”の問題に関する章の中です。

飛行機が空中を飛行するとき、風の影響により地面に対する速度(対地スピード)と大気に対する速度(対気スピード)が違ってきます。この2つの速度ベクトルに風速ベクトルを加えた3つのベクトルの組み合わせから、風速の値を知らずに対気スピードを求めることができるのかという問題に対して、ミーゼスが用意したのが“航行三角形”です。

飛行機に適当に離れた三角地点を全速力で回遊させ、そのときの各三角辺での対地スピードを計測すれば解決するというものです。結論を言ってしまえば、3ベクトルの始点位置を一点に結合させたときにできるベクトルの終点位置3点の外接円を描けば、その円の中心位置と3ベクトルの始点位置で決まるベクトルが風速ベクトルであるというのです。これが決定すれば対気スピードは決まってしまうというわけです。

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筆者は“航行三角形”という問題を初めて知りましたが、せん断応力を知らずして、2つの主応力値からその最大せん断応力値を知るというモールの応力円の手法に何だか似ているなと感じたものです。

それにしても、数学的センス抜群のフォン・ミーゼスの面目躍如たる内容でした。

2008年9月記

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