FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第52話 明治の助っ人外人

日本アルプス、フォッサ・マグナ、ブレキストン線と並べると読者は何を連想されるでしょうか。これらにベルツ水、ナウマン象を追加するとすぐ分かってしまうでしょう。そう、明治政府が招いたお雇い外国人たちが命名したものや、彼らに関係した名称が今でも使用されているものであります。

明治初期、西欧文明導入に当たって招聘した助っ人外人たちの多くは優秀で、研究、教育に熱心であり日本人はまことに幸運でありました。ここに、登場してもらいます二人の英国人も、20代という血気盛んな時代に遠い異国の地に足を運び、実に研究熱心な研究者でありました。

ところで、多くのお雇い外国人たちが日本に来て、まず驚いたのが地震の多さでした。必然的に、科学関係の助っ人たちは地震を研究対象とするようになります。

古来、数え切れないほどの地震の被害に遭っても地震を科学的対象としなかった日本なのに、明治9年(1876)英国から来日したミルンは地震の多さを知るやたちまち研究対象としてしまいました。彼の奔走で明治13年(1880)、“日本地震学会”なるものができました。これは世界最初の地震学会だったそうです。

ミルン(Milne;英1850-1913)は元々、鉱山・地質学の専門家であり、その分野で日本に招聘されています。明治8年(1875)8月、日本へ向けて母国イギリスを旅立ったのですが、特筆すべきは彼の行路であります。船で行くのではなく、何とシベリア横断を実行したのです。これには彼の船酔いがひどく、大の船嫌いだったという裏の事情もあったようですが。

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後の日本の歴史には、日清戦争の前年、明治26年(1893)に、ドイツ公使館付武官だった福島安正陸軍中佐(後年、陸軍大将)が、実に490日を要し、やはり単騎シベリア横断で帰国して国民に大喝采を浴びたニュースがあります。その時よりも、17年も前にミルンはシベリア横断しているのです。当時の社会情勢、地理状況を考えると、驚いた彼の勇気ですね。

前述しましたように、日本へ来てからのミルンの関心は本業よりも地震に関心が移ってしまい、地震計の改良や建築物の耐震性を研究したりしています。現在、耐震ではなく“免震”という技術で地震対応した建築物も多く建設されるようになってきていますが、この免震技術を最初に考えたのもミルンとのことです。

ミルンの日本滞在期間は、一度の帰国を含んで前後19年間という長きに渡りました。この間、地震以外にも日本で氷河が存在したという意見を最初に唱えたり、津軽海峡での生物境界ラインを発見者に因んで、ブレキストン線と名づけたりして何かと日本の学術分野に貢献してくれた人でありました。

明治28年(1895)、日本で迎えた奥さんを同伴して帰国してからも、引き続き地震の研究に余念の無かった生涯であります。それで、ミルンは“近代地震学の父”と呼ばれています。

ミルンのリード役で創設された日本地震学会は、会員117名中なんと80名が外人という構成でした。その後、次々と帰国の途につく会員が多くなったため、残念なことに、明治25年(1892)には解散することになりますが、最初のころの会員の一人にユーイングという英国人がいました。

ユーイング(Ewing;英1855-1935)は恩師がかの有名なケルヴィンでした。日本国から人材派遣を相談されていたケルヴィンはユーイングを紹介したことにより、彼は明治11年(1878)に来日しました。明治16年(1883)帰国するまでの5年間、東京大学で物理、機械の教授職を務めました。学生の間では“ユー公”という愛称で呼ばれていたらしいです。

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ミルン同様、ユーイングも日本では地震に興味を持ち、地震計の改良などで日本の地震学向上に貢献しています。それまで、水平振動しか記録できなかった地震計を鉛直振動まで記録できるように改良したのです。ユーイングの改良地震計を水平、鉛直同時記録できるようにしたのがミルンだったという両者の関係がありました。

しかし、ユーイングの名を世界的に有名にしたのは来日前、来日中、帰国後と3度におよぶ物理学への貢献です。

来日前、23歳の頃のユーイングはエディンバラ大学卒業後、ケルヴィンを助けて大西洋海底電線敷設のための新しい電流方程式の確立に寄与しています。

東京大学在任中は、ワイヤーの熱電気的性質に与える応力の効果を学生と研究している最中、“磁気ヒシテリシス現象”を発見しました。

さらに帰国後の1900年には、金属の変形機構の研究中に金属片の表面に平行線群のあるのを発見します。これがスリップラインであり、塑性変形が金属の原子面間のずれであることが判明したのです。

第1次世界大戦のときは、ユーイングは英国の暗号解読班の部長を務めたそうですが、これだけの有能な人物がよくぞ遠くて未知の東洋国に来てくれたものだ、といまさらながら感心するものです。

東大在職中の教え子の一人に田中館愛橘がいました。後年、田中館が渡欧の度に、恩師ユーイングのもとを訪ねると、「この人が、私の最古の弟子である」と田中館を周囲の人たちに紹介していたそうです。

2007年12月記

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