第5話 近江高島その1
湖西線が大津市から高島市に入って最初の駅が近江高島駅です。頭にわざわざ近江と付くので、他に高島という駅があるのかと思って調べてみたら、岡山県内の赤穂線に高島駅がありました。ただ、こちらも本来は“備前高島駅”にしなければいけなかったようですが、高島駅で通した経緯があるみたいです。
さて、近江の高島のことですが、ここはその昔、大溝城というお城があり、湖西地区では唯一の城下町だったそうです。ところが、城下町でありながら、江戸の初期からは城がありません。大溝藩が改城のための図面を作成していたところ、幕府の築城禁止令が出たため築城できなくなり陣屋に切り替えたそうです。それ以後、大溝陣屋と呼んでいるようです。
“近江泥棒”とまで言われた商売上手の近江商人は、通常、同じ近江でも湖東部の近江八幡、日野、五箇荘の商人たちを指していますが、ここ高島も“高島商人”の町として知る人には知られています。
その象徴例が、デパートの高島屋です。この名前は、この地の高島に由来しているのですよ。高島屋の宗家は代々、飯田家といいますが、創業者が自分の養父の出身地であった高島に因んで屋号を高島屋と名付けたといいます。
そして、もう一つ、明治の初め、突如として歴史から消えてしまった、この高島・大溝に大いに縁のある豪商一族がいました。今回はちょっと長くなりますが、あまり知られざるこの豪商一族のことを紹介することにします。
歴史好きの筆者は、中高生の頃、日本史の教科書に出てくる、“明治7年の為替商小野組、島田組の倒産”という文章が気になっていました。ここに突如として出てくる“小野組”とは、一体どういう商家だったのかと気になっていました。
維新時の官軍東征の際、軍資金の寄付で三井組、島田組と並んでやはり小野組も教科書に顔を出していたと記憶しますが、これだけでは依然、正体不明のままです。歴史の教科書とは実に味気ないものですね。今も延々と流れが続いている、三井、住友、三菱といった旧財閥系の企業については、筆者も少しぐらいは知っていましたが、小野組についての知識は皆無でした。
後に、小野組のことを調べてみたら、三井同様の歴史を持つ老舗でありながら、明治になって時の政府に翻弄された感のある、悲劇を迎えた豪商だったのでした。小野組の歴史には、特筆すべき2幕があるのですが、それを紹介する前に、まずプロフィールを手短にご案内しておきます。
江戸初期の創業の地はもちろん、旧高島郡大溝です。後に手広く全国展開しても、小野組総本家はずっと大溝にある屋敷でした。江戸、明治期を通じてライバル関係にあった三井が呉服の商いが中心だったのに対して、小野は各種物産の商いが中心でした。京都を本店に江戸、大坂の地に主力店を置いていたのは、三井と同じですが、小野のユニークな点は東北にも主力店を持っていたことです。盛岡の地にあった南部藩が城下町の発展を図って積極的に商人を誘致していたのに乗ったのがきっかけでした。小野組が破綻した後も、盛岡市では小野の血を引く企業が今もあるらしいです。それで当地には湖西出身の商売人が多いとのことです。
もう一つ特記事項があります。幕末の時代、後の古河財閥の創業者となる古河市兵衛(1832-1903)が小野組に入店しています。彼は京都の貧しい豆腐屋のせがれでしたが、紆余曲折の前半生の末、30歳の時に江戸日本橋にあった小野組の店に入っています。生え抜きではなかった市兵衛でしたが、持前の商才でぐんぐん出世して、小野組の幹部になっています。彼が小野組内で実力を持ったことが、後に破綻原因の一つの理由とも言われている内紛を起こしたというエピソードもありますが。
さて、小野組物語の山場の第1幕です。時は明治6年、舞台は京都市です。騒動の発端は小野組の本籍登記を京都から東京へ移すための転籍願を京都府庁に提出したことでした。転籍理由の誘因は、この年、大蔵省の肝入りで日本で最初の近代的銀行“第一国立銀行”の設立を三井組、小野組の出資で賄うことに決定したことです。今後本格的な銀行業、為替業をやるには本籍を東京に移した方がいいというのが直接の理由です。ところが、これが簡単にはいかなかったのです。
その当時、京都府庁での実力者は長州出の槇村正直(1834-1896)でした。後に京都府2代目知事となる人ですが、このときはNO.2の地位です。府知事にはお公家さんが就いており、飾りに過ぎません。京都府政を切り盛りしていたのは槇村だったのでした。
槇村は長州に生まれていなければ歴史に名を残すような人物ではなかったかもしれませんが、京都時代は熱血漢であり、京都の再建策に必死でした。というのも、ただでさえ伝統と旧習で生きてきた古都京都のこと、東京遷都の結果、京都は全く活気がなくなり、衰退都市になりつつあったのです。
これを憂えた槇村は、京都を近代化都市に生まれ変わらせるべく、あの手、この手と打っていったのです。日本で最初の小中学校や女学校まで設立したのは実に彼だったのです。聞くところによると、宇治の平等院を売り出そうとしたこともあったそうです。今の大阪府の橋下知事の活動ぶりを連想すればいいかもしれませんね。そんな槇村ですから、小野組が京都から出ていくのが、京都の沈滞化に拍車をかけると判断したのでしょう、それが許せなかったのです。小野組の転籍申請に断固拒否したのでした。
小野組でも黙っておれません。槇村の行為を行政の越権行為として裁判所に訴えました。結果は京都府側に非がありとして罰金を科しました。ところが、槇村はこれを無視した上、司法側を馬鹿にする態度をとり続けたのです。これは、法治国家としての明治日本がまだ日が浅かったゆえ、司法を軽くみる風潮があったのと、槇村が長州閥を背景にしているゆえの傲慢さがあったためなのでしょう。
この騒動、単に小野組vs槇村の問題から発展して、ついに行政vs司法あるいは長州閥vs非長州閥の問題へと昇華してしまったのです。まあ、結局は小野組が勝訴するのですが、これがきっかけで小野組は長州閥の連中に恨みをもたれたといいます。
少し、槇村に同情するところがあるとすれば、昨今、本社を東京へ移す企業の多い大阪の知事さんの苦衷を察する心情と同じというところでしょうか。
次に第2幕ですが、転籍騒動の翌年、明治7年のことでした。しかも、あっけなく幕を下ろした感じです。
当時、国の公金扱いを任せられていたのは、維新時からの御用商人、三井組、小野組、島田組です。莫大な金額になる公金を預かるもですから、当然、運用に回しますね。しかも、当時の政府は公金扱いに寛大で、各組はほとんど無利息、無期限で公金運用できたそうです。
それが、突如として、短期間のうちに運用金額と同額の担保金を提出するような通達が出されたのです。金額が大きいだけに、豪商といえども出来る訳がないですよね。これで、三井だけが生き残って、小野、島田はつぶれてしまったのです。
バブル崩壊後、金融機関に公的支援をした平成の政府とは全く逆の政策を取ったのです。これには、当時の小野組には内紛があったり、公金を利用した放漫経営があるという噂が絶えなかったことに対する政府の憂慮が背景にあったといいます。それにしても、三井一人が生き残ったとは、何か政府の意図があったと考えるのは深読みし過ぎですかね。政府の中枢にいた長州閥の親玉の一人、井上馨は西郷から「三井の番頭さん」と揶揄されるほど、三井組と癒着していたのは有名な話です。
2009年5月 記