第1話 山科
JR湖西線は京都・山科駅を起点とし(電車の始発駅は京都駅ですが)、琵琶湖西岸を北上して近江塩津駅を終点としています。湖西線上で唯一、京都府(市)内にあるのが山科駅です。あとはすべて滋賀県内の駅です。筆者の情報発信基地は山科駅近くにあります。
最近(2009年1月当時)、新聞紙上で見つけたのですが、山科駅を経由して、¥140で出来る琵琶湖一周170kmの電車旅行が静かなブームだそうですよ。湖西線ではなく東海道線側の隣接駅、大津駅からもう一つ隣駅の膳所(ぜぜ)駅までの1駅間切符を買い、一旦、山科駅に逆行してから、湖西線に乗り換えて、時計回りに琵琶湖を回って膳所駅に行くそうです。すなわち、円上で例えれば小円弧ではなく大円弧コースで行くという手段です。これでも大都市近郊区間内であれば、JRの規定には触れないそうです。
琵琶湖を知らない方が、それでは一度行ってみようと思われるかも知れませんが、琵琶湖の眺望が得られるのは電車が湖西線を走っている間だけで、湖東に入るとほとんど琵琶湖は見えませんよ。念のため言っておきます。
さて、JRの話はこれぐらいにして、山科の話題に移ります。読者のみなさんは、山科と聞けば何を連想されるでしょうか。たぶん、忠臣蔵の大石内蔵助ではないでしょうか。討ち入り前、山科に閑居して、夜な夜な祇園の“一力茶屋”に通い、世間の目をくらましていたという話です。しかし、洛外にあるとはいえ、山科も京都の一部、深草の少将が小野小町のもとへ百日通った話だとか、蓮如が本願寺を再興した話とか、まだまだ歴史話が尽きませんよ。でも、そういう話は観光ガイドブックに任せることにして、ここではある地名のことを紹介してみたいと思います。
当地には、御陵別当とか、御陵血洗町というよな(御陵は“みささぎ”と読むのですが、近くに天智天皇綾があることに由来しています)、歴史の香りを匂わす地名が少なくありません。その中で、一風変わった地名があります。それは、“左義長”といいます。
この地名は、“さぎちょう”と読みますが、この言葉、皆さんはどこかで聞いたことありませんか。ちょうど今の時期だと、これからテレビやラジオから聞こえてくるかもしれません。
平安時代、宮中では旧暦の正月15日と18日に、“毬打(ぎっちょう)”という細長い棒を3本立てて、書類、短冊などを焼く行事があったそうです。当時、今で言うホッケー競技のように毬(まり)をスティックで打ち合うスポーツ的遊戯があり、そのスティックを毬打といったようです。左義長の左(さ)は3本の3の当て字のようです。なお、この行事が後に、民間に広まって、それが今の“どんど焼き”になったとのことです。
そこで、山科の左義長のことですが、ここは当時、公家の山科家の領地であり、山科家では、そこで栽培していた青竹を毎年、左義長行事用に提供していたとのことです。これで、地名の“左義長”と行事の“左義長”がつながりました。
歴史につながっている地名というものはいいものですね。昨今、合理化至上主義により無味乾燥な地名に変更したり、平成の大合併などで、首をかしげたくなる地名が出現したりしていますが、筆者には全く理解できません。地名も一つの文化だから、大事にしなければと思います。
2009年1月 記