第2話 ジョンとジョーを育ててくれた清教徒の州
新島襄(1843-1890)と言えば、一般には同志社大学の創立者として知られていますね。ただし、大学の創設に新島が奔走したのは事実ですが、彼の生前には大学は出来ていません。新島が創設したのは、同志社大学の前身ともいえる同志社英学校です。英学校と言っても、何も英語そのものを教えるのではなく、英語でいくつかの科目を教えた学校だったそうです。
新島は46歳という比較的短い人生だったのですが、その前半生と後半生ではガラッと変わった感じがします。キリスト教伝道師として、明治7年(1874)、10年間に渡るアメリカ生活から帰国してからの新島の後半生は、クリスチャン教育者として、前半生に比べると比較的穏やかな人生でありました。興味をそそるのは彼の前半生の生き方です。歴史通の方には退屈するかもしれませんが、あまり知られていない意外なエピソードもあり、しばらく新島の前半生を紹介してみましょう。
新島襄の名はアメリカからの帰国後につけた名前で(アメリカ人に愛称でジョーと呼ばれたらしい)、日本に居た若い時の名は新島七五三太(しめた)でした。天保14年(1843)、上州(群馬県)安中藩の江戸藩邸で生まれています。江戸生まれである上に、後年の活躍の場が京都であったように、新島は群馬県にはあまり縁がなかったのですが、それでも今も群馬県では偉人の一人としてあげられているそうです。面白いことに、新島同様、日本でのクリスチャン教育者として有名になった内村鑑三も上州高崎藩の出です。
新島の意外なのは、ハイティーンの頃、幕府が長崎の海軍伝習所に続いて江戸に開設した軍艦教授所で、数学、物理あるいは測量学や航海術を必死に学んでいることです。軍艦教授所の教授陣は、オランダ人から学んだ海軍伝習所第一期生がそのまま教える側に回った人たちで、その中には姉妹エッセイ“理系夜話”第48話で登場してもらった小野友五郎もいました。新島はそういった理系学問が好きだったようです。後世のわれわれが新島襄にばく然と抱くイメージとはかけ離れるのですが、彼の前半生は全くの理系人間だったのです。このことは、渡米後の学業をみても理解できることです。
猛烈な勉強のため眼を患ってしまい、軍艦教授所を退所してしばらく江戸での私塾で洋学を学んでいた時期に、彼の心に外国に直接触れたいという渇望が芽生えてきたようです。そのための踏み台として、彼は開港して間もない函館(当時は箱館)の地を選びました(1864)。この点は新島の利口なところですね。この時から10年前の安政元年(1854)、ペリーの船で脱国しようとして失敗した吉田松陰とは大きく違うところです。直情径行的な性格もあった松陰とは違って計画的行動を取っています。あるいは、松陰を反面教師としていたのかも知れませんね。
函館では、ロシア正教の宣教に来日していたニコライ神父の所に転がり込みます。ニコライの日本語教師を務めながら、日本脱出を窺がっていました。ついでに言っておきますと、ニコライ神父というのは、今も東京神田にある有名なニコライ堂1 のニコライですよ。しかし、新島から脱国計画を打ち明けられたニコライは反対したそうです。仕方なく、別の手蔓を使って新島は日本国の脱出に成功しました。ただし、いきなりアメリカという訳にはいかず、上海経由で一年後にボストンの地に立つことができました。時に、日本の年号で慶応元年(1865)でありました。
ここで、考えさせられるのが、当時のアメリカ人のことです。渡米生活では新島の先輩格にあたるジョン(中浜)万次郎のときもそうですが、実にアメリカ人が親切なのです。どこの馬の骨とも分からない東洋の一青年に対して、どうしてこんなに親切にしてくれたのかと感謝を超えて不思議にさえ思ってしまいます。やはり、ピューリタン精神旺盛なアメリカ東部のゆえなのでしょうか。この時の新島も親切なスポンサーがついて、大学まで行かせてもらっています。この大学というのは、マサチューセッツ州の内陸部にあった宗教系大学のアマースト大学です。
アマースト大学では、日本人にとって馴染みある人物と新島は一時、接触しています。札幌農学校へ招聘される以前のクラークです。クラーク自身、この大学の出身者であり、当地にできた農学校の校長に赴任する前、アマースト大学で教鞭を執っています。ほんの一時期でしたが、新島はこのときのクラークに教えを受けています。その意味で、クラークの日本人生徒第1号は、札幌農学校の生徒ではなく、新島襄だったというわけです。
新島には、もう一つ、第1号があります。1870年(明治3年)にアマースト大学を卒業しているのですが、このとき得た学位が理学士です。これは、日本人最初の理学士となります。
アマースト大学で、余談を一つしておきますと、後年のことになりますが、帰国後の新島が休養と募金活動を兼ねて再度、アメリカを訪問したときのことです。現地で、内村鑑三に出会い、大学の進路で悩んでいた内村に対して、新島はアマースト大学を勧めたといいます。現実に、内村鑑三も1821年に創立されたというアマースト大学のOBに名を連ねています。
結局、日本の明治7年(1874)に新島は日本に帰国することになるのですが、旧幕府下といえども、鎖国日本の掟を破ったという罪を新島は背負っていました。ところが、彼にとって、滞米中にラッキーなことがありました。明治4年に出立したという岩倉具視を代表とする、あの有名な遣欧米使節団がアメリカに来たのです。欧米文明に詳しい人物の少ない当時の日本のことです。当然のごとく、新島が使節団の通訳、案内役に雇われることになります。欧州大陸への同行までしています。このときの政府首脳陣に知り合えたことが、新島の帰国をスムースにし、また、帰国後の京都での活動で有利に働いたことは間違いない事実です。
以上が、新島襄の前半生の概要でありますが、筆者は彼が学んだというアマースト大学というのが、一体どの辺りにあるのかと、マサチューセッツ州の地図を見ていて、いくつか感想を持ったことがあります。そこで、最後にそれらの点についてご紹介してみます。
前々から思っていたことなのですが、マサチューセッツ州、コネチカット州、ニュー・ハンプシャー州といった、アメリカ建国初期の13州はいずれもが面積が小さいため、日本で出版されているアトラス型の地図で、それらの州の地図の詳細を眺めようとしても、まず不可能に近いですね。アマースト大学の位置も、別ルートでやっと分かった次第です。
マサチューセッツ州の地図を眺めていて、まず気づくのが、ニュー・ベッドフォードです。ここは、新島襄がボストンの地を踏む時より22年前、ちょうど新島が生まれた年に、あのジョン万次郎が、救助してくれた親切な船長に連れ
られて初めて立ったアメリカの地でした。
マサチューセッツ州というのは、通常、ハーバード大学、MITといったように多くの有力大学を擁する州として知られていると思いますが、地図をじっと眺めていると、地名に関しても興味深いことを発見します。一般名詞の由来元になっている地名がこの州には多いのです。ボストン・バッグ、スプリングフィールド銃がそうです。また、ウスターソースのウースターも縁があります。もっとも、この州のウースターは母国の地イングランドのウースター市(州)に因んで付けられた地名なのですが、この英国のウースターで作られたのでウスターソースといわれています。今では消滅してしまっていますが、一時はウォルサムと言えば、時計の代名詞の一つでしたよね。
それにしても、アメリカの地名というのは、どうしてあんなに同名の地名が各州で使われているのでしょうか。異国人にとっては、なんとも紛らわしくて仕方ないですね。スプリングフィールドと言えば、イリノイ州の州都でもあります。コンコードは姉妹エッセイ“理系夜話”第25話にも出てきたニュー・ハンプシャー州の州都でもあります。ボストン郊外に位置する、独立戦争での激戦地として有名なレキシントンでは少なくとも12の州でその地名があるそうです。これが、日本だと、郡上八幡と近江八幡あるいは、郡山(福島県)と大和郡山というように旧国名を頭に冠して区別して問題回避しているのですが、表音文字圏のアメリカでは冗長すぎて、そうもいきませんね。
2009年9月記
- ニコライ堂は、夏目漱石の“それから”にも描かれているそうですが、筆写には、この名を聞くと、いつもあるナツメロの歌詞に連想がいきます。若い読者はご存じないと思いますが、昔、藤山一郎という国民栄誉賞も受賞している有名な歌手がいました。この人が歌う“東京ラプソディー(昭和11年、作詞門田ゆたか、作曲古賀政男)”の2番歌詞に、「いまもこの胸に この胸に ニコライの鐘が鳴る・・・」というのがありました。 [↩]