第39話 エピソード宝庫の町
京都府の南部、大阪府と接する場所に八幡市という所があります。人口7万人ほどの小さな市なので東日本の人たちにはあまり知られていないかもしれませんね。ですが、知らず知らずのうちに誰しもその名を口にしているでしょうし、その場所を見ているかもしれません。
牛蒡を鰻で巻いた“八幡巻き”という食べ物がありますが、これは元々、当地産の八幡牛蒡を使用したのが由来です。
また、時代劇によく出てくる欄干のない長い木橋を見かけますが、あの橋は当地を流れる木津川に架かる、俗称“流れ橋”をロケーション地に選んだものです。
しかし、何と言っても八幡市を代表するのは男山という小高い山の上にある石清水八幡宮でしょう。覚えておられる方もいるでしょうが、中高生時代の古典の教科書には「仁和寺のある法師…」で始まる吉田兼好の徒然草の有名な一節があったはずです。法師が初めて石清水に詣でたときの失敗談ですが、あの石清水がここの八幡宮です。
男山といえば筆者の出身地である大阪市の小学校では遠足の定番コースの1つでしたが、今でもそうなのでしょうか。先日(2006年当時)、46年ぶりに訪れてみて、この小さな八幡市が歴史的エピソードに恵まれた地であることを再確認させられました。サイエンスの分野でも興味深い話題がありますで、今回は京都・八幡市のことを紹介してみようと思います。
男山に登って西を見渡せば、眼下に木津、宇治、桂川の3川が合流して淀川となる景色が見渡せます。その向こうには天王山が見えます。天正10年(1582)この麓で羽柴秀吉と明智光秀が激突した、いわゆる“山崎の合戦”が展開されました。このとき、日本語のボキャブラリー追加に貢献する一人の人物が登場します。
男山のやや南方に洞ヶ峠という所があります。今では、国道1号線が京都府、大阪府の境を横切る地点の近くになると言えばいいのかもしれません。この位置まで、乗り出してきたのが奈良の筒井順慶です。
そして、この地で秀吉、光秀両軍の戦況をうかがう姿勢をとりました。これが後世、ずるい日和見的態度をとることを指す“洞ヶ峠をきめこむ”の由来であることは読者の方もよくご存知でしょう。筒井順慶は“元の木阿弥”という故事にも関係する人なので、事の真相はともかく、少しでも日本語を豊かにした人物であると言えるかもしれませんね。
山崎の合戦の2年後、天正12年(1584)の生まれで、石清水八幡宮の僧でもあり書画にもたしなんだ江戸時代初期の文化人の一人である松花堂昭乗(1584-1639)という人がいました。有名な本阿弥光悦らと並んで“寛永の三筆”の一人といわれたそうです。この人は農作物の種子を箱の中を仕切り板で分けた四つ切箱に保存していたらしいです。昭和の初め、料亭吉兆の創業者がこれをヒントにして創作したのが今日の“松花堂弁当”の始まりということです。
さて、話題をサイエンスの分野に移します。時代もぐっと下がって明治時代。
海の向こう、アメリカではエジソンが自身、発明した白熱電球のフィラメントの材料を求めて世界中に人を派遣していました。そんな中で、日本の団扇で使われている竹が注目されました。これが炭素フィラメントの始まりのようです。
その後の調査で京都周辺の竹が一番良好ということで、八幡市産の竹に白羽の矢が立ったようです。時に、明治13年(1880)ごろのことです。その後しばらくの間、輸出が続いたそうです。この話は子供向けの本にも出ていることなのでよく知られた逸話でしょう。男山の山頂にはこの歴史的事実を記念してエジソン記念碑があります。
最後に、この八幡という町に関係する人物で、知られているようであまり知られていない一人の人物を紹介したいのですが、話が長くなるため、次の話に回します。
2006年7月記